※座談会の御書解説

治病大小権実違目(じびょうだいしょうごんじついもく)

 

・通解

元品(がんぽん)の法性(ほっしょう)は梵天・帝釈天等の諸天善神としてあらわれ、

元品の無明(むみょう)は第六天の魔王とあらわれる。

(元品の法性とは、生命に備わっている根本の悟り。

元品の無明とは、生命に具わる根本の迷い。

第六天魔王とは、正法に敵対し、仏道修行をさまたげる働き。いっさいの「魔」の働き。)

 


善神(ぜんじん)は悪人をあだみ、悪鬼は善神をあだむものである。

 

今は、末法(まっぽう)に入っているから自然に悪鬼が国中に充満している。

あたかも瓦石や草木があたり一面にはびこっているようなものである。

 

なぜなら末法は、悪世(あくせ)であるから、善鬼は天下に少なく、聖人(しょうにん)・賢人もまれだからである。

 

それならば、疫病は「念仏者」・「真言師」・「禅宗」・「律僧等」よりも、

日蓮大聖人の一門の方にこそ多く病にかかり死ぬ人が出るはずである。

 

ところがどういうわけであろうか、諸宗の彼等よりも病気になる者も少なく、死ぬ者も少ない。


これは大聖人の一門の人数が少ないせいであろうか、それとも信心が強盛(ごうじょう)の故であろうか。

 

・解説

本抄は、富木(とき)常忍(じょうにん)から四条金吾に託して届けられた御供養と御手紙に対するお返事の書です。

 

富木殿が手紙の中で、世間に疫病がますます盛んになってきた、と報告されたことに対して、

大聖人は、疫病の起こる原因を明らかにされ、またそれを治すための方途を御教示くださっているのです。

 

まず、原因としては、国主をはじめとする一切衆生が、正法たる「法華経」を誹謗(ひぼう)し、法華経の行者を迫害する故に、


法華経の守護神である梵天・帝釈天・日月、の四天等がその国を治罰(じばつ)する。


ために三災七難(さんさいしちなん)が起きるのである。

 

去年や今年、また正嘉(しょうか)の大疫病がそれである、と説かれています。

 

それに対して、客人が疑って、

(主・客、の問答形式をとられています。)


「それならば謗法(ほうぼう)の人々だけが疫病にかかるはずであるのに、

どうして大聖人門下の弟子達も疫病にかかり死んだりするのであるか」

という問いを発しています。

 

今回の引用の章は、この疑問に対する答えの部分です。


大聖人は、その疑問はもっともであるが、

それは物事の一面を知って、もう一面を知らないものである、と、

道理の上から答えられています。

 

まず、「一念三千の法門」によれば、人間の生命には、

その本性としてもともと具わっている善と悪の生命があるというのです。

 

この具わっている善の生命とは、広くいえば「十界」のうちの四聖であり、

その究極が仏界である。

 

また悪の生命とは広くいえば六道・九界であり、なかんずく「地獄」・「餓鬼」・「畜生」の三悪道であります。

 

このすべての生命に備わる善、すなわち「元品の法性」が事象の上にあらわれれば、

正法の行者を守護する諸天善神の働きとなり、

 

逆に悪の生命、すなわち「元品の無明」があらわれれば、

第六天魔王の働きとなって法華経の行者の修行をさまたげ、悩ますのであります。

 

今、末法の時代においては、邪宗・邪義が隆盛(りゅうせい)を極めているために、

あたかも草木や石ころがあたり一面にはびこるように、

悪鬼が充満して、世の中は第六天魔王の所領となっており、

 

それに対して、法華経の行者はまれであるから、善鬼は少なくなっているというのです。

 

それだけを考えると、正法を護持(ごじ)しているが故に大聖人の弟子のほうが、

多くの疫病にかかり死ぬのが当然であるはずなのに、

現実は逆で、謗法(ほうぼう)の者は多く病気にかかって死んでおり、

大聖人の一門の被害は少ないという状況だったようです。

 

この道理・現象をあげられて、大聖人は、門下に人数が少ないからであるか、

それとも信心強盛の故に病からまのがれているのであろうか、

と仰せられています。

 

いうまでもなく、大聖人の示されている御意は後者にあるのでありますが、

このことは現代において、まじめに信心修行にはげんでいる信者の生活のうえにもはっきりと表れています。

 

まじめに修行している人々の中には、不慮の災難に遭遇したという話は皆無に近く、

 

逆に折伏(真実の仏様の教えを伝えること)されて、猛烈に反対したり、

三宝(仏・法・僧)に対して誹謗をなしていった人々はどうでしょう。

 

一年後・三年後・五年後とその後の状況をたどってみると、

ほとんどの人がなんらかの苦境に陥っています。

 

このような現実を目の当たりにするとき、

「幸」・「不幸」の歴然たる相違がどこから生じるのかを明らかに知ることができます。