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※日顕上人様からのお言葉、抜粋

「信心即生活(一行一切行)」

 

宗門(日蓮正宗)の在り方は、昔から僧俗一途(そうぞくいっと)であります。

お経も、お題目も、御記念も、僧侶は何も特別なことはしていません。

 

皆さんより特別な何かがありますか。

「勤行要典」に僧侶は別であるなどと書いてはいないはずです。

必ず僧俗はすべて同じであり、一つなのです。

 

では、在家は何をすべきかというと、はやり唱題(南無妙法蓮華経を唱えること)を非常に大事だと思うのです。

 

このお題目の功徳は、普通の考え方とは全く違う御仏智(ごぶっち)によるのです。

 

ですから、一生懸命に信心ばかりしていると世法がおろそかになるというように考えておる人は、

はっきり言えば、お題目が足りないのです。

 

「法華経」の円理よりみた「行」について「一行一切行」という語(ことば)があります。

一つの「行」がそのまま全部に通じているという意味であります。

 

ですから、真剣にお題目を唱えているその「命」そのままが、現在、

あなた方が持っている山のような荷物も、あらゆる職業も、一切に通ずる意味があり、

必ず一切を開いていくことが出来ると、私は申し上げるものであります。

 

僧侶である私に世法のことまで判るはずがないと思う方もあるかも知れませんが、

これは確信をもって申し上げたいと思います。

 

「そういう体験」のある方もいらっしゃるでしょう。

「これを一つやればこちらがおろそかになる」とか

「時間は限られた24時間だから、24時間のなかでこちらをやっていると、あちらはできない」

 

という信心は、本当の妙法の信心をしていないし、また、妙法の功徳をはっきり受けきっていない姿なのです。

 

世間では、いろいろな事業をしていて失敗する場合があります。

失敗のなかには、下の者に安心して任せていたのに裏切られて、

気がついたらいつの間にかひっくり返っていたというようなこともあります。

 

それはどこに「原因」があるかというと、「自分自身」にあるのです。

 

自分がその人間を見抜けなかったということ、また、それ以上に、

自分自身の命の中から表れてきておる姿、

「職業」なら「職業」というものを妙法の心をもって正しく見ていないからなのです。

 

つまり「欲」のためとか、その他、なんらかの煩悩によって間違った見方をしているからなのです。

 

結局、間違った見方をしていると、せっかくの財産や家族、健康、その他の様々なものを、

煩悩、宿業、罪障等によって無くしてしまうことにもなるのです。

 

本当に正しい信心をしっかりしていけば、そのまま皆さん方一人ひとりに、

天から与えられておる現在の職業、その他のすべてがそのまま正しく照らされ、

おのずから妙法の上の生活、命がはっきりと現れてくるのであります。

 

ただし、その人その人によって色々な因縁がありますから、

幸福の表れ方、不幸の表れ方は様々でみんな違うけれども、妙法によって一切が通じていくのであります。

 

むしろ、この信心の基本を忘れているから、職業や生活のほうまでがおかしくなってしまうのです。

 

そこに気がつかないというところに「謗法(ほうぼう)(法をそしる行為)」の姿があるということお互いに感じて、

「世法即仏法」というものを正しく実践することが大切です。