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※日顕上人様のお言葉

提婆品において「悪人成仏」、いわゆる提婆達多(だいばだった)の成仏と、

それから畜生である竜女の女人成仏ということがしめされてあり、

 

それまで成仏することはできないとされていた衆生が、

妙法の大きな功徳をもって仏と成ることができたという次第です。

 

この「仏に成るというところに本当の幸せがある」ことを、よく考えなければならないと思うのです。

 

特に一般の人々は、「仏と成る」ということがどういうことか、

現実の生活のなかで何を意味しておるのか全く解かっておりません。

 

もちろん、これは簡単に言い表せないことですけれども、

「永遠の命」において本当に正しく幸福な道をきちんと掴み、

またその命を自ら開ききっていくことが「仏の命」とも考えられます。

 

したがって、仏に成らないということは「必ず不幸になる」ということであり、

「地獄」・「餓鬼」・「畜生」の三悪の「縁」に従って、

未来永劫のなかで悪童に堕ちていくことになるのです。

 

「法華経」の難信難解である所以のひとつは、

「衆生の命は永遠である」ということであります。

 

今世に生まれ、やがて死んでしまったとしても、けっしてそれっきりで無くなってしまうものではないのです。

 

そのなかにおいて、「本当の幸せを得る」ということは、

成仏することのほかには全くないのであります。

 

したがって、「成仏することのできない教え」は「誤り」であり、

「誤り」であるということは「法」に背いておる姿があるのです。

 

つまり、真実の教え「法華経」以前の教えである「方便の教え」。

 

方便の教えは、一往(いちじゅう)、方便としては存在しているけれども、

それが本物の仏と成る法に背いて、離れてしまっていってるところに、

必ず「謗法があらわれてくる」のであります。

 

大聖人様の三大秘法、特に御出世の本懐(ほんかい)たる本門戒壇(ほんもんかいだん)の大御本尊を根本として信心修行するところに「成仏」の道があるわけです。

 

それに対して背く者は「謗法」なのであり、それによって「地獄に落ちる」ということは、

「成仏」ということの意義をきちんと考えたときにけっしていい加減な物言いではないのです。