※御法主日顕上人様からのお言葉

 
皆さん方それぞれの生活は、一人ひとり環境も違えば目的も違うというふうに、あらゆる立場の方がおられます。

しかし、その一人ひとりが唱題行によって、本日は雨が降っておりますが、雨が降ることによって三草二木(さんそうにもく)、ことごとくが大きくなっていくように、

平等の功徳・利益が与えられるということを信ずるのであります。

「汝(なんじ)、今、一念(いちねん)随喜(ずいき)の信を致す、函蓋(かんがい)相応(そうおう)、観応動交(かんのうどうこう)疑い無し」

という御文がございます。
「函」とは、はこという字であり、「蓋」は箱のうえにかぶさるフタであります。


たとえば、一尺の箱に一丈の「蓋」があっても何の役にもたちません。

また、反対に、大きな「箱」に対して小さな「蓋」があっても、なかに落ちてしまい、「蓋」の役目をはたしません。

やはり、「箱」と「蓋」とが相応した大きさが大切のようにいかなる境遇の人、いかなる貧富、賢愚、勝劣、すべての人に「平等に利益が存する」ところが妙法であります。


その次の観応道交(かんのうどうこう)とは、「観」はわれわれの信心であります。

「応」は、ご本尊様の輪円具足の尊い功徳であります。

道交の道は、みちということですが、道は我々が題目を唱えることです。それによって、ご本尊様の一切の功徳が、我々凡夫の迷いの命に通じ、

九界の迷いがそのまま「仏界」を頂くことができるのであり、

すなわち、信心によるところの我々の九界の迷いの命がご本尊様に通じて真の十界互具のところへ観応道交していくということであります。


また、先ほどの「函蓋(かんがい)」、でいいますと、我々は箱、すなわち器であります。

皆様方、ここに生ける一人ひとりが、自分の命という器を持っておるわけです。

そこには「大きな器」、「小さな器」、いろいろあるわけですけれども、その器が正しい信心によって正しい蓋を得て初めて、正しい「器」と「蓋」になっていくということが存するのであります。

売り物の箱は規定の大きさで作ってありますから変わりません。
大きくも小さくもなりませんが、我々衆生は違うのでありまして、

現在は「小さい器」であっても正しい信心によってどんどん成長させることができます。

一人ひとりが無限の発展の意義をもち、無限の尊い功徳により、その「生命の器」をどこまでも広げていくことができるのであります。

したがって、「お題目の功徳が無限」であるということがそこに存すると思います。

お題目を知らない人、つまり正しい三大秘法のご本尊に対する信心と、このお題目の功徳を知らない人は、結局、自分だけの考え方のなかに閉じこもってしまうことになるのであります。


どんな人も、みんな「因縁」によって存在してますから、その因縁によって、ある人は謗法であったり、
ある人はそれぞれの社会の重要な役職にあったり、その他、有意義な人生を送る人もあるとおもいますが、結局、人間の考え方、凡夫の考え方はそこまでのことなのであります。

妙法を受持し我々の函蓋相応の信心の一念が、「成仏の真の功徳」を発揮していくこと、功徳の「無限の発展性」を備えておるということ信ずることが大切と思うのでございます。
 
 
大聖人様は、「諸法実相抄」に
「末法にして、妙法蓮華経の五字を広めん者は男女は嫌うべからず、
 
皆、じゆの菩薩の出現に非ずんば唱へがたき題目なり。
 
日蓮一人がはじめは南無妙法蓮華経と唱えしが、二人、三人、百人と次第に唱へ伝うるなり。
未来もまたしかるべし。是、あにじゆの義に非ずや。」
 と、仰せでございます。
 
すなわち、自行化他の題目を唱えて自らも成仏を確信するとともに、他をも導きつつ、三毒強盛にして心の貧困極まる今日の濁悪の世をおのずから救済する功徳を顕する言葉、それであります。
 
 
妙法を受持して、たとえ一人になろうともこの正法を説き勧めんと志すその身に、えんねんとしてのじゆの菩薩の深い尊い境界と功徳が備わるのであります。
 
 
このじゆの菩薩は、世の腐敗・堕落の泥水に染まらぬこと、蓮華の水に在るがごとく、しかもその泥水を離れず、大慈悲をもって志念力堅固に妙法をぐづうすることが「経文の相」であります。
 
つまり、世間の迷いのなかに悪習・悪風に盲従せず、妙法受持を根本として折伏の信念をもって濁悪の世を進むことこそ、じゆの使命であります。
 
 
大聖人様は、南条時光殿に対し、
 
「その国の仏法は、貴辺にまかせたてまつり候ぞ」
 
と仰せであります。。
ご本仏より仏法のぐづうを任せられる、これほどの光栄がありますでしょうか。