・新池御書(にいけごしょ)
雪山(せっせん)の寒苦鳥(かんくちょう)は寒苦(かんく)に責められて、夜明けなば巣を作らんと鳴くと言えども、日い出ぬれば、朝日の温かなるに眠り忘れて、また、巣を作らずして一生虚しく鳴くことをう。

(雪山は、昔の見解では、ヒマヤラ山が相当だとか。そこで寒さにむせび鳴く鳥が、温かくなったら寒さをしのぐ巣を作ろうと考えるが、日が照り温かくなると寒さの辛さも忘れて飛び回り、遊びほうけて、時間を浪費してしまう。
のどもと過ぎれば、なんとやら、ということですね。
また、寒さが厳しくなると、あの時作っておけばよかった、今度は作ろう。
と思うのだが、また温かくなると忘れてしまい。
寒さに苦しみ、一生を終えてしまう。)

一切衆生(いっさいしゅじょう)も、また、かくの如し。
地獄に落ちて、炎にむせぶ時は、願わくば今度人間に生まれて、諸事(しょじ)をさしおいて三宝(さんぽう)を供養し、後世(ごせ)菩提(ぼだい)を助からんと願えども、
たまたま人間に来たる時は、名聞名利(みょうもんみょうり)の風は激しく、仏道修行の灯(ともしび)は消えやすし。

(世間の人達もまた同じであります。
亡くなり、地獄に落ちたときは、今度生まれて来た時こそは、どうか、仏、法、僧侶を奉り、供養し、修行することを誓うのだが、
人として生まれた後は、世間と己の欲にまみれてしまい、前に誓った仏道修行のともしびは消えてしまいがちなのです。)