※座談会の御書解説、松野殿御返事パート2、終

私たちが信仰をする目的、それは、三世(現在・過去・未来)に揺るぎない成仏を遂げることにありますが、

日蓮大聖人は、その究極の目的を果たすべく、一生涯、強盛に信仰を貫き通すことをうながされています。

おろかな凡夫の常として、生活上に行き詰まりや苦しいことが起きると、そのことで頭がいっぱいになって、

勤行にも身が入らなくなってしまったり、また、嬉しいことがあると有頂天になって信心を忘れてしまったり、というようなことがあるものです。

しかし、大聖人は、
「一睡(いっすい)の夢であるはずの今生の苦しみですら、これほど苦しく感じている。
ましてや後生(ごしょう)に地獄に堕ちる苦しみはどれほどのものであろうか」

「今生の悦びは夢の中の悦びにすぎない。
本当の悦びは、仏果を成じて、三世にわたって崩れない成仏境界を得ることである」

と肝に銘じて、なおいっそう唱題行(南無妙法蓮華経を唱えること)に励むべきことを教えられています。

すなわち、今生の出来事に一喜一憂して信仰を見失うことなく、後生に成仏を遂げることを最大の願いとして、
たゆまず怠らず、信心を進めていかなくてはならない、というのであります。

また、このように、後生に成仏を遂げられるような強盛な信仰をしていくならば、そこに大功徳が生じ、
今生における悩み・苦しみも必ず解決することができ、生命力に溢れた毎日を送ることができるのです。

しかして大聖人は、
「退転なく仏道修行を貫き通し、最後、臨終の時を待ってみなさい」
と仰せられ、成仏の境界の幸福感がいかがかりかを説かれています。

これは、成仏の境界を比喩的表現をもって示された御金言ですが、では、もし我々が臨終を迎えて、本当に成仏を遂げたならば、その生命はどこに行くのでしょうか。

その生命は、戒壇の御本尊の中に帰入・帰一して、大聖人をはじめ御歴代上人方と共に、
常寂光(じょうじゃっこう)の境界において自受法楽(じじゅほうらく)できるのでありましょう。