・人界

人界とは、さまざまな環境の変化や、欲望、感情で揺れ動く生活の中で、

 

穏やかな平成な生命状態にあり、人間らしさを保っている境涯です。

 

仏法では、「平らかなるは人」といいます。

 

人界は、物事の善悪を判断する理性の力が働きます。

 

善悪の基準を明確に持ち、その基準に照らして、

 

自己コントロールできる境涯です。

 

この人間らしい境涯も、努力なしには持続できません。

 

 

人界は、十界の真ん中にあり、上にも下にも行きやすいのです。

 

同時に人界であり続けることも、難しいのです。

 

人間らしく生きる、ことは、まず「恩」を知り、報いようという心を持ち、

 

常に向上心を持って努力が必要です。

 

それが、自分に勝つ、境涯の第一歩です。

 

 

人界は、人間性豊かに、感情豊かに生きられる境涯ですが、

 

また悪縁に触れて、悪童に落ちる危険性とも隣り合わせにあります。

 

その反面、修行に励むことによって徳を積み、

 

四聖(ししょう)への道を進むことができる可能性をも、持っているのです。

 

 

・天界

天界とは、地上の人間を超えた力を持つ神々の住む世界です。

 

インドでは、今世で良い行いをした者は、来世で生まれい来るとされていました。

 

仏法では、喜ぶは天、といいます。

 

天界を生命境涯の一つとして、欲望を満たした時に感じる、喜びの境涯として位置づけています。

 

いろいろな願いや欲望がみたされ、喜びに浸っている生命状態です。

 

 

しかし、その喜びは長続きしません。

 

時とともに薄らぎ、消えてしまいます。

 

しかも、魔は天に住む。というように、魔が入りやすい状態で、注意が必要なのです。

 

このように、天界は、真実の幸福境涯とはいえません。

 

 

 

ここまで説明した、地獄界から天界までの六つの生命状態は、

 

私達の生活の中でまちまちに現れて、行ったり来たりしているので、

 

六道輪廻といいます。

 

これが輪廻転生の境涯です。

 

地獄界から天界までの六道は、結局、自分以外の条件や環境に左右されています。

 

たまたま欲望が満たされた時は天界の喜びを味わい、

 

環境が平穏であれば人界の安らぎを受けられます。

 

しかし、ひとたびそれらの条件が失われた場合には、地獄界、餓鬼界の境涯に転落してしまいます。

 

環境に左右されているという意味で、六道の境涯は本当の自由で主体的な境涯とはいえません。

 

 

私達は、他人の六道はみえても、自分の六道は見えないのです。

 

六道の境涯を超えて、環境に支配されない、主体的な幸福境涯を築いていこうとするのが、

 

仏道修行です。

 

この仏道修行によって得られる境涯が、声聞、縁覚、菩薩、仏の四聖です。

 

 

・声聞(しょうもん)界

声聞界と縁覚界の二つは二乗といい、仏教の中でも小乗教で得られる境涯です。

 

声聞とは、もともとは仏の声を聞く、という意味です。

 

声聞とは、仏法に対して求道心を持って、いろいろな人の体験や思想を理解して、

 

自分を人間的に豊かにし、向上させていこうとする生命状態です。

 

知識や教養を身に付け、自分を磨いていこうとしているときは、声聞界といえます。

 

 

しかし、残念ながら自分の修行が精一杯で、人の苦しみを思いやる慈悲心がありません。

 

その結果、自分の知識を鼻にかけたり、人をさげすむ傾向にもなります。

 

 

・縁覚界(えんがくかい)

縁覚界とは、一つのことを研究して、宇宙や生命の法則の一部を解明できた、

 

何か新しいものを作り出すことができた、その充実感や喜びを感じる生命状態です。

 

芸術家などが絵を描いたり、作曲したり、学者が真理を発見したりすることも、

 

縁覚界の働きの一分といえます。

 

二乗の境涯は、小乗仏教が理想としたものです。

 

二乗の境涯を得た小乗教の聖者は、

 

無常のものに執着する煩悩が苦しみの原因だとして、煩悩を無くしていこうとしました。

 

二乗が得た悟りは、仏の悟りからみれば、

 

完全なものではありません。また二乗はその低い教えに安住し、

 

さらにその奥の仏の悟りをもとめようとしませんでした。

 

仏様の境涯の偉大さを認めていても、自分たちはそこまで到達できないと諦めて、

 

自ら低い悟りにとどまってしまうのです。

 

仏様は、自らの悟りにとらわれて、他に利益を与えようとしない二乗を不成仏の者として、

 

厳しく叱られたのです。

 

仏教の一分の悟りは得ても、自己中心の心が残っていて、

 

慈悲心が出ないところに二乗の限界があります。

 

 

・菩薩界

菩薩界とは、慈悲をもって生きる境涯ですから見返りを求めません。

 

他人を慈しむ心が厚く、人のために労力をおしまないという生命状態です。

 

 

菩薩とは、仏の悟りを得ようとしてたゆまぬ努力をし、

 

師匠である仏の境涯に到達しようと努力する人のことです。

 

その菩薩の道は、「上求菩提(じょうぐぼだい)下化衆生(げけしゅうじょう)」です。

 

これは、上に向かっては仏界という最高の境涯を求めていく、

 

下に対しては自分が仏道修行で得た利益を、

 

他人に分けていく「求道(ぐどう)と化他(けた)」の実践です。

 

自他共々の幸福を願って仏道を行じていくのが、菩薩界です。

 

 

二乗は、自己中心の心に囚われますが、菩薩界は人のため、

 

法のためという使命感で生きています。

 

このように慈悲を根本にした生き方が、菩薩界です。

 

例えば医療や福祉にたずさわる人は、

 

この菩薩界のはたらきの一分がないとできない仕事です。

 

 

・仏界

仏界とは周りの環境に左右されず、何があっても崩れない絶対的な幸福境涯で、

 

人間の生命状態の中でも最高の境地です。

 

仏(仏陀)は覚者(かくしゃ)といい、宇宙と生命を貫く根源の法を悟った人です。

 

 

その覚りと慈悲と知恵を体現し、その力で民衆を救い、覚らせようとする人が仏です。

 

具体的には、インドの釈尊があり、経典には方便として種々の仏が説かれています。

 

 

妙法においては、時間空間にわたる、ありとあらゆるもの(宇宙全体)が、

 

一体になって久遠の本仏の一念にそなわっていて、

 

ここに凡夫は信の一念を尽くす事によって、

 

あるがままの姿で仏に慣れると説かれています。

 

 

宇宙全体が、妙法のあわられた大生命であり、

 

九界の衆生の命も本来、その生命体と一体なのです。

 

それを、悟れば仏、迷えば凡夫。と説かれています。

 

 

仏界は、私達の命にもあります。悲しいかなこの仏界を、

 

「我が心さへ知らず見ず、いわんや人の上をや」、と言われるように自分も気が付かないでいるのです。

 

ここに気が付いたときから、妙法の信心がはじまります。

 

 

・十界互具(じっかいごぐ)

十界互具とは、十界の各界が、互いに十界を備えていることです。

 

例えば、いかるは地獄といいますが、

 

地獄界の人が一日中怒り続けているわけではありません。

 

喜んだり、悲しんだり、泣き笑いの人生です。

 

しかし、その中でも怒りの命が出やすい、という傾向が強いのです。

 

その地獄界にも、十の生命の命があり、仏にも十の生命があります。

 

 

これは大変すばらしいことです。

 

誰にでも、どんな境涯の人にも、仏界の命があるということが、誰にでも成仏できる根拠です。

 

 

人の心は、瞬間・瞬間、十界のどれかの境涯が出ています。

 

さらに、生命にとって基調となる生命境涯があります。

 

たとえば、常に悩みと苦しみが絶えず、

 

絶望感にかられやすい人の基調は、地獄界に色濃く染められていると言えます。

 

慈悲と勇気をもって化他行を実践し、

 

仏の境涯を目指して常に努力を続けている人の命・生命の基調は、菩薩界といえるでしょう。

 

 

人は人間と生まれただけで、そのまま人間界の境涯で生きていけるわけではありません。

 

人間である以上、基本的には人間が生命の基調となります。

 

今までに積み重ねてきた結果としての生命境涯が、時々刻々に出てきます。

 

三毒の命を出してきた人は三悪道が、自愛にあふれたい人は菩薩界が、

 

その人となりとして出てきます。

 

その境涯は、志をもっての修行により、よりよく変えていくことができます。

 

 

十界互具とは、すべての人がそれぞれの生命の基調を、

 

仏界の方向へ転換していける理法なのです。

 

例えば、いかるは地獄と言いますが、しんには善悪にわたる、とあります。

 

悪い怒りを、良い怒り、正義のための怒り、義憤にかえられます。

 

 

また、餓鬼界のさまざまな欲望は、人にとって生きていく上で必要なものでもあります。

 

もっと成長したい、向上したい、いい生活をしたい、という欲望は、

 

仏法への信仰により、前向きで建設的な方向にむかって、意欲となり、

 

向上心となって、生活を向上させ、社会を発展させる原動力になります。

 

 

・三毒の命から菩薩へ

地獄、餓鬼、畜生、修羅、その命を仏界の命に変えていくのが私達の法華経の信心です。

 

煩悩、業、苦の三道、法身(ほっしん)・般若・解脱の三徳と転じて・・・、

 

との御文は、このことをいうのです。

 

その為の唱題行です。お題目(南無妙法蓮華経を唱えること)はその人の境涯がすぐあらわれます。

 

 

私達の信心は、ご本尊様の中央、南無妙法蓮華経 日蓮、というところの、

 

ご本仏日蓮大聖人の御魂魄から、自分の命が離れなければいいのです。

 

 

地獄界の命が出てきても、餓鬼界の命が出てきても、

 

信心がご本尊様の南無妙法蓮華経 日蓮、という仏界の命から離れなければ、

 

命はすぐに人界の中の仏界に戻ります。

 

しかし、信心が、ご本尊様のところから離れてしまえば、もとの命にはなかなか戻りません。

 

地獄界の命が出ても、ご本尊様に繰り返し唱題していくと、連鎖がとまって、

 

だんだん出にくくなります。

 

私達の信心、朝夕の勤行は、ご本尊様の南無妙法蓮華経 日蓮、という首題に自分の命を合わせることです。

 

そうして、三毒の命が、慈悲の念に、かわるように祈ることです。

 

我見を出さずに、罪障消滅と慈悲の化他行を祈ることです。

 

それでこそ即身成仏の功徳を頂、歓喜の心があらわれてくるのです。

 

 

・真の幸福にも、絶対的な幸福と相対的な幸福があります。

 

相対的幸福とは、経済的に恵まれたり、願いが叶った状態です。

 

しかし、欲望には際限がありません。

 

一時は満ち足りても、永くは続きません。

 

環境や条件が整った場合に成り立つ幸福なので、それが崩れたら、

 

その幸福も崩れてしまいます。

 

絶対的な幸福とは、何があっても生きていることが喜びだ、という幸福境涯です。

 

外部からの条件に左右されない幸福ですから、

 

絶対的幸福といいます。

 

 

娑婆世界にすんでいる以上、人生には苦難がつきものです。

 

その苦難に直面したとき、困難をバネにして、

 

悠々と乗り越えていく生命力と豊かな知恵を持ちたいものです。

 

たとえば、人は日々の暮らしの中で、知らず知らずのうちに、

 

自分と他人を比べて競いあっています。

 

他人と比較することなく、昨日の自分より、

 

今日の自分が少しでも成長できることに喜びを持てるようになれば、心は安らぎます。

 

これは、向上心を表す地涌(じゆ)の菩薩の徳です。

 

 

仏法をもとに、目先のことに振り回されず、囚われず、あまり欲を出さず、

 

一喜一憂せず、何事も前向きに正直に生きて生けたら、最高の人生といえましょう。

 

 

・妙と申す事は開

法華題目抄に「発(ほつ)とは開(かい)なり・・妙と申す事は開」

 

とあり、御義口伝(おんぎくでん)には、

 

「開とは我らが成仏なり・・己心の仏を開く」とあります。

 

ご本尊様の前に座り、全身全霊を信の一念に唱題すると、自分の心の仏界が開けます。

 

この仏界の心を強くして勤行し唱題する事で、さらに仏界が開けて、

 

境涯と生活がより良く変わります。これが、六巻抄にいう、

 

「仏界の心強きを名づけて、仏界となす」ということです。

 

 

この仏界・仏性を自覚し、自分を豊かに開き、同時に他者の支えとなり、

 

あらゆるものに対して思いやりの深いあり方を示していくことこそ、

 

本当の幸福者であると、仏法では教えています。

 

この「開く」とはものの障害が取り除かれて見える事です。

 

御義口伝には、「この仏法を受持するは、

 

信の一字なり。元品(がんぽん)の無明(むみょう)を対治(たいじ)する利剣(りけん)は信の一時なり」

 

とあります。

 

この信の一時によってこそ初めて、元品の無明(根本の迷い)を断ち切り、

 

取り除き、ご本尊と境地冥合(きょうちみょうごう)できるのです。

 

要は、信じきって、唱題することです。信じきることが、難しいのです。

 

信じきれないのは、我見が残っているからです。我見がなくなれば、信じきれるのです。

 

信じきったところが、即身成仏です。