前編では、中国大陸の歴史のからくりとして、北方騎馬民族の軍事的脅威をとりあげ、その外交対策としての『冊封体制』について記しました。後編では、『万里の長城』について考えてみます。
前編で記したように、万里の長城は家畜(=漢民族)を猛獣(=北方騎馬民族)から守る柵だったように私には思えます。
いってみれば、マンガ『進撃の巨人』に出てくる人類こそ、漢民族そのままだといえばいいのだと、私は思います。
wikiから『進撃の巨人』のストーリーを抜粋・引用してみると、『万里の長城』に囲われた漢民族そのものの歴史のように私には、思えます。
(=漢民族)、(=北方騎馬民族)(=万里の長城)を追記してみました。
【引用開始】<<
繁栄を築き上げた人類(=漢民族)は、突如出現した“天敵”「巨人」(=北方騎馬民族)により滅亡の淵に立たされた。生き残った人類(=漢民族)は、三重に築かれた「ウォール・マリア」、「ウォール・ローゼ」、「ウォール・シーナ」という巨大な城壁(=万里の長城)の内側に生活圏を確保することで、辛うじてその命脈を保っていた。城壁による平和を得てから約100年後。いつしか人類(=漢民族)は巨人の脅威を忘れ、平和な日々の生活に埋没していた。
>>【引用終了】wiki『進撃の巨人』より
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%80%B2%E6%92%83%E3%81%AE%E5%B7%A8%E4%BA%BA
漢民族とは、征服者が北方騎馬民族であろうと、他の漢民族であろうと、支配されることが当たり前になっていた歴史を歩んできた、中国大陸南方の雑多な農耕民です。
その意味で、家畜化されたと言ってよい。野生のイノシシと豚が違うように、オオカミと犬が違うように、漢民族とは、一部がたまに征服する側にまわることがあっても、大多数は家畜化されたといって過言ではありません。すなわち、漢民族とは、雑多な民族の総称ですから、言語・文化・風習・民族も違いますが、漢民族の共通点は、漢字でコミュケーションできること、征服されることに馴れて家畜化されたことでした。
付言すれば、家畜としてのアイデンティティーのより所になったのが、儒教をもとにする『徳の文化』とか『王道』とかの妄言だと、私は思います。
漢民族は征服され・収奪されるのを常としてきましたが、『進撃の巨人』で描かれる人類ように、圧倒的な軍事力を誇る北方騎馬民族に抗するために、万里の長城を築きます。
万里の長城は、古代中国の戦国時代から築かれ、漢・秦・隋に引き継がれましたが、大唐帝国では長城防衛そのものを不要としました。これは騎馬民族の鮮卑系王朝の唐の太宗が、北方の強国突厥を降してモンゴル高原を支配下に置き、北方騎馬民族の長として認められたからに他なりません。
五代十国時代は戦乱に忙しく、宋王朝は弱小過ぎて長城を整備する余裕はなく、長城は中国大陸から姿を消します。長城防衛線を復活させたのは漢民族王朝の明の時代、第3代皇帝である永楽帝でした。永楽帝は、元の再来に備えて長城を強化する必要に迫られ、北方国境全域において長城を建設し、『万里の長城』はようやく現在の形になります。
明王朝は、家畜(=他の漢民族)を猛獣(北方騎馬民族)から守る柵として、万里の長城を復活させたのですが、大清帝国の勃興により、山海関から侵入され滅びます。
そして面白いのが、大清帝国は、万里の長城を放置したことです。
大清帝国は、満州人が建国した帝国で、モンゴルの大ハーン、チベット仏教の守護者、漢民族には皇帝として君臨し分割統治します。それぞれの支配地の交流を禁止したので、万里の長城は防衛線としては無意味でも、国境の目印としては役に立ったのだと、私は思います。
現在、残っている万里の長城は、貴重な歴史遺産であることは間違いありません。
我々日本人が、万里の長城をみて思いを馳せるべきなのは、『進撃の巨人』で描かれる人類さながら、北方騎馬民族の強大な軍事力にさらされ、儒教などの家畜文化を築いてきた漢民族の悲哀だと、私は思います。
【関連記事】
征服者視点で中国大陸史を眺めてみる:冊封体制と家畜(=漢民族)を囲う万里の長城 (前編)