一度は行っておかなくてはと思い立ち、行ってまいりました。
下松駅近くにある「浄西寺」さんです。
こちらにご先祖様のお墓があるんですね。
本堂に向かって左。
磯部家のお墓です。
以前書いたように、私の曾祖母山縣キワの両親は夫婦養子として山縣家に入りました。
山縣良衛となったキワの父の生家は磯部家です。
と言っても塩田で財を成した宮洲屋(みやのすや)の磯部ではなく分家した河内磯部と呼ばれる家系です。
磯部家は元々は菅原道真の末裔ですが、そのうちの一人が九州に住み着いて土持家に仕え野見と名乗るようになります。
というか、野見のほうが菅原より古い名前ですね。
野見の宿祢の子孫が後に菅原と名乗ったので、古い名前に戻ったということです。
この日向の野見一族は現在の宮崎県にあたる日向の国で暮らしていたのですが「天正六年四月十日」大友氏の侵攻で延岡にあった土持氏の松尾城が陥落しました。
野見宗安の長男の「宗祥」はこのとき戦死。
宗安は、三人の息子、常安と後に是頓と名乗る子、末の勘九郎を連れて天正六年夏に下松にたどり着き剃髪し、医者として働くようになります。
海伝いとはいえ宮崎から山口、ずいぶん遠くまで逃げるものだなあと最初は思いました。
ですが大友氏はキリシタン大名。
土持氏の尊崇していた神社仏閣を破壊しまくったと言われています。
おかげで土持氏の時代の一次資料が消えてしまったと現代の郷土史家も嘆いているようです。
さらに九州では南蛮貿易で人間を奴隷として輸出することが横行していたそうなので、ご先祖様の逃げ足に感謝です。
とは言え主家を見捨ててっていうのはどうよ、とも思ったのですが、実は土持家の跡取りも山口に逃げてきているのですね。
日向(宮崎県)からいったん豊後(大分県)に逃げ、そこから長門(山口県西部)に落ちのびました。
豊後から長門への直行は無理でしょうから、一度港のある下松に上陸するかと思います。
野見宗安とは下松までは一緒だったのでしょうか。
どうなんでしょう?
土持家の跡取りは長門のほうに伝手があったのかそこにしばらく住まい、同年十一月に松尾城が島津の領地になると島津に被官して延岡に戻りました。
宗安は城代レベルの重臣だったはずなのに、なぜ一緒に戻らなかったんでしょう。
そこが不思議だったのですが、医者として働けるレベルの知識人であった宗安は文人肌で、そんな彼は戦乱に嫌気がさしていたのかなとも思いました。
それでも懐かしむこともあったのか、故郷の地名をとって「野見」を「磯部」に改名しました。
宗安は下松で十三年後に亡くなります。
正面2基の向かって右が宗安夫妻、左が常安夫妻です。
宗安の妻は夫と同じ年に日向で亡くなったようです。
彼女は土持家の出身です。
たまたま里帰り中だったのか、別居していたのか。
別居だとすると松尾城で亡くなった長男「宗祥」をはじめ生家の土持家の霊を弔いたいと日向に戻っていたのかもしれません。
延岡市の松尾城の近くに「土持神社」という神社があります。
ここは松尾城落城の際に逃れてきた土持家の跡取りが自害した場所と言われています。
詳細は不明ですがその後怪異があり、これはたたりではないかと囁かれたため神社を作って死者を祀ったと言い伝えられています。
でも跡取りは長門にいったん逃れたあと島津に被官して松尾城に復帰していますよね?
亡くなったのは誰でしょう。
実は土持神社の付近で自害したのは跡取りの側仕えだったという説があるそうです。
もしかして若君の代わりに亡くなった側仕えって「宗祥」だったりしませんか?
年齢は近いんですよね。
そして「宗祥」は母が土持氏ですから容姿が跡取りに似ていた可能性も…。
いやいやいや。さすがにそれは突飛すぎますね。

両親が相次いで亡くなった頃の「常安」は28歳くらい「是頓」はおそらく20代半ばから前半くらい。
土持氏は豊後水軍の佐伯家とも親戚でしたので、その縁なのでしょうか、常安は海運業の「下松屋」を盛り立て、出家した弟は四十代の頃に「浄西寺」を開山します。
常安は晩年、弟の寺の一角に隠居所を建てて住まったと言われています。
向かって右が浄西寺の開基、是頓、左は歴代住職のお墓です。

「山口縣寺院沿革史」では兄弟の名前が混同されていますが、宮洲屋の磯部家が徳山藩に提出した家系の記録(譜錄)にも、河内磯部家が伝えている家系図にも二人が別人であることが記されています。
もしかするとお寺の出資者が兄で住職が弟、晩年は一緒に住んでいたせいで話が混線しているのかもしれません。
常安の息子「常林」の末息子の「林久しげひさ」が私のご先祖様、河内磯部の祖ですので、宗安・常安・常林のお墓に参れてよかったです。
ご先祖様、戦乱を生き残ってくれてありがとうございます。
磯部家の家系図については、令和四年の下松地方史研究会の会報第58号に詳しい資料が出ていますので関心のある方はご覧ください。