愛を描く。<第七話>~君と描く~
最初から読む方はこちらから『愛を描く。<第一話>~絵は口ほどに物を言う~』地方の美術大学に通う、田中陽(よう)という男子学生。目立つ存在ではなく、控えめな性格もあって、「平凡」という言葉がしっくりくる。陽には密かに心を寄せている女性…ameblo.jp 夏美は目を覚ました。昨晩のことが夢だったような気がした。隣を見ると、陽が寝ている。左手を見ると、ちゃんとリングが輝いていた。(夢じゃ・・・無いから)夏美は、幸せをかみしめながら、「んんーっ・・・」両手の握りこぶしをゆっくり上げて、笑顔で寝起きの伸びをした。その声で、陽も目覚めた。夏美は伸びをしながら陽の方を見て「あ、陽君おはよ」とほほ笑んだ。「夏美ちゃん、おは・・・」陽はそこまで言うと、慌ててそっぽを向いた。夏美は不思議に思ったが、伸びながら、視線を落とすと、自分が何も身に着けていないことに気付き、「わああああ!」そういって毛布にくるまった。「陽君のバカー!」夏美はそう言いながら、毛布と一緒に寝室を出て行った。陽は、なぜ自分が攻められるのかと、苦笑いしてそれを見ていた。 ゆるんだ笑顔をすることが増えた夏美であったが、昨晩、新たに増えた絵を眺め、自分の左手を見て、過去最高にゆるんだ笑顔をしていた。「夏美ちゃん、遅刻するよ?」「・・・はっ!いけない!」「じゃ、行ってくるね、鍵たのむね」「ああ、陽君いってらっしゃい!・・・あ、陽君!」「ん?なに?」夏美は陽の肩につかまり、少し背伸びをして、口づけをした。「昨晩はありがとう・・・いってらっしゃい」「い・・いて・・いってきます」フリーズが解けた陽は、ぎこちない歩みで家を出た。夏美は笑顔で手を小さく振っている。(さ、私も急いで支度をしないと・・・)夏美は念願の=いってらっしゃいのキス=を達成したことに、心の中でガッツポーズをしていた。 「ちょっと!夏美!」「ん?どうしたの?美香」「夏美の・・・左手・・・それ・・・」「・・・あっ」夏美は、少し間をおいて照れくさそうな顔で、「・・・そうなの」「そうか、昨日の誕生日に・・・ああ、太陽さん!・・・ついに!」「・・・うん」「よかったね・・・夏美・・・本当によかった・・・」「ちょっと、なんで美香が泣くのよ!」「・・・だって・・・良かった・・・おめでとう」「・・・美香・・・ありがとう」少し落ち着いて、美香が話し出す。「ちょっと、もっとよく見せてよ」「うん、ほら」「うわー綺麗、よかったね、羨ましいよ」「ふふ、ありがとう」「指輪も綺麗だけど、最近はよくイヤリングしてるし・・・夏美、輝いて眩しい!」「もう、あ、これね、イヤリング、いただき物なんだ」「そっか、太陽さんから?」「ううん、陽君のお母さんが買ってくれたの」「もう、幸せいっぱいね、こっちはお腹いっぱいよ」そういって美香は嬉しそうに話している。ランチを済ませ、コーヒーに口をつけながら、美香が、唐突に疑問を投げかけた。「ところでさ・・・」「ん?」「太陽さん、よく夏美の左薬指のサイズわかったわよね」夏美は、何を言われているのか、わからなかった。「夏美、指輪全くつけないし、どうやってわかったんだろう、教えたの?」「いや、教えてないし聞かれてもない、指輪しないから私もサイズわからない」「そう、じゃ、たまたま偶然サイズ合っちゃったんだね、凄いね」「偶然・・・」夏美はそう呟いた。昨晩の感動的な場面で、空気を読んでくれた「偶然」に感謝をしていた。(でも・・・本当に偶然なの・・・?)夏美は、頬杖をついて考えていた。その手に、イヤリングが触れる。「・・・・あっ!」(お母さん・・・あの時だ・・・)美香は、固まっている夏美を、不思議そうに眺めながら、コーヒーを啜った。 「夏美さん!よく来てくれたねぇ!」陽の母が嬉しそうに出迎えた。「お母さん、この間はありがとうございました」「うんうん、こちらこそ、さあ、お入りください」陽と夏美は、少し緊張の面持ちで、陽宅に上がる。「どうぞ」母はお茶を並べながら、夏美の左手を見て微笑んだ。「で、話ってなんだい?」「うん、母さん、もうわかっているだろうけど、僕、夏美ちゃんと結婚することにした」「うんうん」「お母さん、よろしくお願いいたします」「あはは、嬉しいねぇ、夏美さんが本当に娘になってくれるんだねぇ」「お母さん・・・」「母さん、色々ありがとう」「夏美さん、陽はしっかりあなたに伝えられたのかい?」「はい、心から、伝えてくれました」「そう、よかった・・・陽、今日だけは褒めてあげる」「父さんにも、報告してくれるかい?二人で」「うん、夏美ちゃん・・・」「はい、よろこんで」二人は父の仏壇の前で手を合わせている。母はその姿を嬉しそうに眺めている。父の隣にあるイーゼルには、もう絵は無い。「じゃ、母さん、慌ただしくて申し訳ないけど、夏美ちゃんちにも行くから」「ああ、わかったよ、また今度、私もご挨拶に伺うから、あちらさんにもよろしくお伝えして」「うん、じゃ、夏美ちゃん」「うん、お母さん、これからどうぞよろしくお願いします」夏美は平身低頭、母に頭を下げた。母は同じように返礼をする。「夏美さん、これからは親子、もうお辞儀は今日までよ」「はい、お母さん」「ふふふ、また買い物付き合ってね、夏美さん」二人の乗る車は夏美家へ向かった。それを見送った母は、夫の前に行き、手を合わせ、「あんた、陽はしっかりやり遂げたよ、今日だけは褒めてやってちょうだい」そう言って、しばらくそこで、夫と一緒に泣いていた。 「お邪魔します」「はい、どうぞ、お待ちしていましたよ」夏美の母に連れられ、二人は父の待つ、リビングに向かう。「やあ、陽君、元気でやってたか?」「はい、おかげ様で、ありがとうございます」父は二人に、母が淹れたお茶を勧めた。「あの・・・お父さん・・・」「はい・・」父は緊張して変な返事をしてしまった。母がキッチンで声を押さえて笑っている。「僕は、夏美さんに結婚を申し込みました」「・・・・」「夏美さんから承諾をいただきましたので」「・・・・」「二人の婚約をお認めください」しばらくの静寂の後、黙って聞いていた父が口を開いた。「陽君」「娘と付き合って、何年になったかな?」「大学3年生の途中ですから、5年くらいになります」「5年か・・・」(5年もの間、夏美を照らしてくれてたんだな)父は天井を見上げて、あふれるものを堪えた。「・・・陽君」「・・・はい」「私は君に、娘を幸せにしてやってくれとは言わない」今度は陽が黙って聞いている。「夏美、おまえも良く聞きなさい」「・・・うん」父は一呼吸おいて、「約束してほしい・・・二人で・・・幸せになるんだ」陽は深々とお辞儀をして。「お父さん、約束いたします」「お父さん、ありがとう、幸せになります」夏美も応えた。「よし、わかった・・・・母さん、持ってきてくれ」「はい、わかりました」夏美の母は、リビングに4つのグラスと、一升瓶を持ってきた。それを見て父が話す。「夏美が大学を卒業したとき、こんな日が来ることを考えて、用意しておいた熟成酒だ」父はその熟成酒を開け、4つのグラスに少しずつ注いだ。「飲んでほしい、今だけ付き合ってくれるか?」陽と夏美、それから両親はそれを黙って口にする。「陽君、夏美、母さん、ありがとう、これで今から私たちは家族だ」テーブルに置かれた日本酒のラベルには「親子」と書かれていた。「すまんな、私の自己満足に付き合わせて」父は笑みを浮かべながら言った。「いえ、・・・よろしくお願いします」「お父さん、・・・ありがとう」「・・・陽君」父が立ち上がった。それを見て母も立ち上がる。釣られるように二人も立ち上がった。「夏美を・・・どうぞ・・・よろしくお願いします」そう言って父は深く頭を下げた。母もそれに続いた。「ありがとうございます、よろしくお願いいたします」陽も同じように深く頭を下げた。夏美は両手で顔を覆い、とめどなく溢れる涙を押し隠すように肩を震わせた。左手の指の隙間から流れ落ちる大粒の涙は、美しいリングに共鳴しているようだった。 カランコロン「あ、マスターこんにちは」「ああ、田中さん、いらっしゃい」「この間はありがとうございました、これ食器類」陽は喫茶店のマスターに、紙袋を渡した。「はい、確かに、さっき彼女さんからもお礼言われましたよ、あ、もうお待ちですよ」「あ、はい、本当にありがとうございました、じゃ」「ああ、彼女さんじゃないか、奥さんですね」「・・・マスター、一応まだです」「あはは、これは失礼しました、どうぞごゆっくり」陽は、軽く会釈をして、夏美が待つテーブルへ移動した。「夏美ちゃんお待たせ」「陽君、マスターに食器・・・」「うん、返したよ」席に着く二人に、嗅ぎなれた香りが近づいてきた。「お待たせいたしました」今日はマスター自らテーブルに来て、カチャ、と静かに二人の前にパスタを並べた。「そろそろだと思って、頼んでおいた」夏美は笑顔でそう言った。「こちらは、サービスです」予想外の声に、夏美は驚いている。マスターは続けて、透明の液体の底に、深みのある赤色が沈んでいるドリンクを2つ置いた。「ブラッドオレンジ・イタリアンソーダです」「うわあ、・・・綺麗な飲み物」夏美は目を輝かせて言った。「マスター・・・ありがとうございます」陽はマスターにそう言って会釈をする。マスターは陽に向かって軽く会釈を返して、「どうぞ、ごゆっくり」そういってテーブルを離れた。二人は会社帰りの恰好のまま、いつものようにパスタをつついて、いつものように他愛のない話を楽しんでいる。いつもと何も変わっていないのに、二人はいつもより幸せを感じている。「夏美ちゃんさ」「ん?」「式・・・挙げたくない?」「式って?・・・結婚式のこと?」「そう・・・どうかなって思って」「うん・・・それは挙げたいけど・・・」「けど?」「・・・職場の人とか呼びにくいし、お金もかかるし・・・」「ああ、うん、そうだよね・・・」「だから、いいの、式は無くって」陽は少し考え込んで「じゃあさ・・・」「・・・ん?」「家族婚・・・やらない?」「え・・・どうしよう」「家族婚、しようよ・・・僕、夏美ちゃんにウェディングドレス・・・着てほしい」「・・・陽君」夏美は、また新しい笑顔を見せた。 何回目の打ち合わせだったか、もう二人にもわからなかった。ただ、二人で相談しながら未来を決めていく時間は、それだけで楽しかった。「じゃ、挙式はチャペルでいいね」「ふふふ、チャペル・・・」「会食は、無しでいいの?」「・・・うん、なんでも・・・」「で、チャペルはここで・・・挙式後は記念撮影と・・・その場に紅茶用意くらいでいいかな」「・・・ふふ」夏美はチャペルとドレスのカタログを眺めて、顔を、緩めに緩めている。「夏美ちゃん、ちょっと、ちゃんと一緒に考えないと」「・・・はっ、ごめん」夏美にふやけるなという方が無理な話であった。陽は、苦笑いをして、夏美を見た。「では、これで挙式とその後のプランは進めさせていただきます」「はい、よろしくお願いします」陽はそう言いながら、貰った資料を整える。「では、次はお衣装の方のお打ち合わせを・・・」二人とプランナーは、衣装室へ移動する。「わあ・・・たくさん・・・」「たくさんありすぎて、どれからどう見たらいいか分からない」夏美は並んだドレスを見て、目を輝かせている。陽は、そんな楽しそうな夏美の後を、ゆっくり着いていった。「これだけあると、目移りしちゃうよ、ねえ陽君どうしようこれ」「いくつか、候補挙げて、試着させてもらえば?」「試着、できるんですか?」夏美はプランナーに尋ねた。「サイズなどの問題もありますので、今日は数着ほど候補を挙げていただき、奥様のサイズを後日用意いたしますので、そこで試着後のデザインのご確認と、実際に着用されたサイズ感の確認をさせていただければと・・・」「わかりました、では、もう少し見て、何着か選びますね」「はい、どうぞごゆっくり、ご主人様もぜひ」(奥様だって・・・)夏美の顔がまた緩んでいる。二人は、ドレス選びを楽しんで、時間が経つのをすっかり忘れていた。「これ・・・」「あ・・・」二人の足が同時に止まった。「陽君、見てこれ・・・」「うん、おどろいたね」そこに飾られたドレスは、あの絵の夏美が着ていたウェディングドレスにそっくりだった。「・・・これに・・・しようかな?」夏美は小さい声でそう言った。「陽君は?他にいいのあった?」「ううん、僕もこれ着てほしいって思った。でも、ドレスはやっぱり夏美ちゃんが決めた方がいいかな?」「・・・うん、ありがとう・・・これにする」「他の候補は?」「・・・これ一着でいいや」二人はプランナーに話し、後日の試着日程を決めていた。「陽君は来ないの?試着の日」「・・・うん、仕事で来れないな、それに当日まで、見ないでとっとく」「えー、一人かぁ、どうしようかな」夏美は一人でも仕方ないかなとも思ったが、「ねえ、陽君、お母さん、誘ってもいいかな?」「うん?・・・母さん?・・・母さんさえよければ、別にいいけど」「そう、わかった・・・じゃ、これでお願いします」「かしこまりました、では明後日、お待ちいたしております」二人の記念日に向けた準備が、今の二人には、最高のデートになっていた。 「夏美さん!」「あ、お母さん、すみません、急にお願いしちゃって」「ううん、うれしいよ、どうせ暇してたからねぇ、楽しみだよ」「ドレスですから、女性の同伴者がいると心強いんで」「でも、私は、和服ばかりだからねぇ・・・頼りになるかどうか・・・」「いえいえ、この前楽しかったし、また一緒にお出掛けしたかったんです」「あらまぁ、うれしいこと言ってくれるねぇ」「もうすぐ、娘にしてもらえますから、不束者で申し訳ありませんが」「ふふふ、今日はこの後、ご飯、ご馳走しちゃうわ」「えー付き合ってもらってるの私なのに、ダメですよ」「いいんだよ、一人で食べてもつまらないから、夏美さんにご飯、付き合ってもらうんだから」「うふふ、じゃあお言葉に甘えます」そう言って夏美は屈託のない笑みを浮かべた。 「お待ちいたしておりました、どうぞこちらでございます。一応サイズは前後1段階ずつ用意いたしました」「あ、ありがとうございます」「お母さまでいらっしゃいますか?どうぞご一緒に」「あらまぁ、ふふふ、はい、では」そういって、夏美と母は試着ルームへ入っていく。夏美が試着を終え、姿を現す。「うわあ、夏美さん、綺麗だよ・・・」母は涙ぐんで夏美の姿を見た。「こんな綺麗な人が・・・陽を・・・」「おかあさん・・・・あ、変なところないか見てください」「ああ、どれどれ・・・うんうん、綺麗だよ、夏美さん」一足先に夏美のドレス姿を見た母は、そっと涙を拭いた。「でもこれ、陽の絵と同じドレスかね?あるんだねぇ、同じようなデザインが・・・」母はついうっかり、そう漏らしてしまった。(あ・・・やっぱり・・・お母さんは先に絵を見てたんだ・・・)夏美は心の中で納得した。(・・・ううん、今日の目的をきちんとやらなきゃ)「・・・あの、お母さん」「うん?なんだい?夏美さん」「・・・えっと・・・私を・・・写真に収めてくれませんか?」「ああ、もちろんだよ、私が撮るのかい?」「はい、お母さん、お願いします」陽の母はスマホを準備する。「・・・あの・・・陽君のお父さんにも、見てもらいたくて」「・・・夏美さん」夏美の想いに不意に触れてしまい、いつも気丈にふるまっていた陽の母は、この時ばかりは、子を想う母であり、亡き夫の妻に変わり、大粒の涙を、そっとハンカチで拭った。 「ご馳走さまでした」夏美と母は、寿司屋で食事を楽しんでいた。「いいのよ、美味しかったねぇ、いつも一人だから、なおさらだったよ、あ、お茶いただく?」「あ・・・じゃあ、いただきます」「うふふ、夏美さん、ありがとう、今日も本当に楽しくてねぇ」「私も楽しかったです、付き合っていただいて、ありがとうございます、ご馳走にまでなっちゃって」「あはは、いいのいいの、ここのお寿司、美味しいでしょ?」「はい、凄く美味しかったです、とくに鯛がもう!」「そうそう、鯛を塩で食べるのが絶品なのよねぇ、一人で入りにくいから、また付き合ってちょうだいね」「ぜひ!・・・今度陽君ともこようかな?・・・あ、お母さんも一緒に3人でどうですか?」「ははは、お邪魔な気もするねぇ」「そんなことありませんよ、親子だし、それに陽君とはいつも一緒にご飯食べてるし・・・あ・・・」夏美は恥ずかしいことをサラッと言ったことに気付き、少し、赤面した。そんな様子を、母は、微笑ましく眺めていた。「夏美さん・・・本当にありがとう」「いいえ、お母さんこちらこそ」「ううん、それもだけど・・・写真・・・夫のために」「あ・・・いえ・・・私が見てもらいたかったから・・・」「ありがとう・・・ありがとう・・・」母は、お茶を啜った。その顔は泣きながら笑っているようだった。陽は母を車で自宅に送った。「夏美さん、今日はありがとうねぇ、楽しかったわ」「お母さん、お付き合いいただいて、ありがとうございました。ご馳走にもなっちゃって。」「ううん、いんだよ、気を付けて帰るんだよ」「はい、おやすみなさい」「じゃあ、母さん、またね」名残惜しそうに二人の乗る車を見送る陽の母は、二人の幸せに引き寄せられているような感覚を覚えた。「ほら、プレゼントだよ」母は、仏壇にウェディング姿の夏美の写真を置いた。もう一度、その美しい姿を堪能した母は、仏壇の方に写真をむけ、置きなおした。 聖堂の静寂は、まるで水底に揺らめく光のように透き通っていた。ステンドグラスから差し込む七色の光彩が、粒子となって空気中に漂っている。重厚な木製の扉の前、鏡に映る白いドレス姿の夏美に向かい、母が静かに歩み寄ってきた。その瞳には、溢れんばかりの温かな光が宿っている。「本当におめでとう、あの絵、現実になるんだね」母の小さな手が、ふわりと薄いベールを持ち上げた。繊細な刺繍の施されたレースが視界を柔らかく霞ませていく。母の指先が頬を掠めたとき、その温もりが、激しく慟哭していたあの日の夜、ずっと撫でていてくれた手のひらと同じだと気づく。「お母さん……今まで、ありがとう」声が震えてしまうのを隠せなかった。母は愛おしそうに目を細め、ベールをそっと夏美の顔の前へと降ろした。「幸せになりなさい、どんなときも、二人で歩みなさい・・・・私たちや、陽君のお母さんもついてる」慈愛に満ちた母の囁きは、まるで祈りのように胸の奥深くへ染み渡っていった。言葉以上に雄弁な温もりに包まれ、視界がじんわりと滲む。「おいおい、本番前に二人で泣かれてちゃ困るよ」どこかおどけた声が重苦しい空気を和らげた。振り向くと、いつもより仕立ても仕草も仕上がっているスーツ姿の父が、少し照れくさそうに胸を張っていた。「お父さん……ちゃんと歩けるかしら?」夏美の母が、涙をぬぐいながら父を揶揄う。「何を言っているんだ、だてに何十年も父親をやっていない、ただ、この靴が少しキツイだけだ」真面目な顔で冗談を言う父に、思わず小さな笑いが漏れた。「何十年もっていうけど、これは初めてじゃない」母は、なおも父親をいじる。夏美もつい、笑みをこぼした。差しのべられたその腕に自分の手を回した瞬間、強張った父の腕の力強さにハッとさせられる。幼い頃、背中に背負ってくれたときの大きな背中。間違ったことをしたとき、真っ直ぐに夏美を見つめて叱ってくれた強い瞳。そのすべてが、この腕の硬さに詰まっていた。「いいか、躓いたら、俺のせいにしろ、だが前だけは見据えて歩くんだぞ」「・・・うん」厳しさと優しさが同居する父の言葉に頷いた瞬間、重厚な扉が静かに開いた。一瞬で視界が光に満たされる。パイプオルガンの重厚で幻想的な音色が頭上から降り注ぎ、高く澄んだ天井へとしとやかに響き渡った。白い大理石のバージンロードは、まるで未来へと続く光の川のようだ。一歩、踏み出す。「・・・遅いか?」「ううん、ちょうどいいよ」「そうか・・・少し、遠いな」父の呟きはオルガンの音に消えそうだったけれど、確かに聞こえた。バージンロードの先には、真っ直ぐにこちらを見つめて待っている陽がいる。一歩踏みしめるごとに、父と歩んできた歳月が光の粒子となって背後に流れていくようだった。「お父さん、歩くの上手だね」「当たり前だ、お前を正しく導くのが俺の仕事だったんだからな・・・その仕事も今日で終わりか・・・」少しだけ声を落とした父の側顔を見ると、口元は微笑んでいたけれど、目元にはうっすらと光るものがあった。ついに、光の川の果てへ辿り着く。陽が静かに一歩前へ出、深々と頭を下げた。父はわたしの手をゆっくりと解き、彼の手に重ねようとして——ふと立ち止まった。父親らしい厳格な眼差しで、陽をじっと見つめる。「約束、忘れてないよな」短く、重い一言。しかし、次の瞬間、父はいつものように少し目尻を下げてニヤリと笑った。「必ず二人で、幸せになりなさい」陽は強く頷いた。「はい、約束します」重ねられた手が、温かい。父の大きな手がわたしたちの手を優しく包み込み、「さあ、ここからは君たち二人で行くんだ」そう言って、静かに離れていった。光の中、振り返らずに一歩引いた父の気配を感じながら、夏美は陽と並んで前を向いた。顔は涙で濡れていたが、それを拭うこともせず、まっすぐに前を向いた。陽は夏美の歩調に合わせて、一歩ずつ、バージンロードを嚙みしめるように歩む。陽に連れられて歩む夏美の足は、自分の意志ではっきりと陽と同じ歩幅で陽と同じ方を向いて、歩んでいた。ステンドグラスの光が、新しく始まる未来を祝福するように、二人の足元を美しく照らしていた。そんな二人の美しく、神秘的は姿を見て、陽の母のハンカチは、顔から離れることは無かった。夏美の父は、ずっと天井を眺め、母は口を手で覆っている。聖堂の空気はさらに深く静まり返り、パイプオルガンの余韻がゆっくりと天井の暗がりへ溶けていった。牧師の穏やかな誓いの言葉に続いて、小さなベルベットの箱が開かれた。光を反射して一筋のきらめきを放つ、ふたつのシンプルなリング。「右手を・・・あ、違う、左手だ」彼が少し引きつった笑みを浮かべながら差し出してきた手を見て、胸の奥から小さな温もりが込み上げてくる。「ふふ、緊張してるの?」「すごくね、指輪、落としたらどうしようって・・・手が滑りそうだ」「大丈夫、私がちゃんと受け止めるから」ひそやかに交わす囁きに、お互いの強張っていた肩の力がふっと抜けていく。陽が夏美の左手をそっとすくい上げ、薬指へと滑らせた。ひんやりとした金属が肌に触れた瞬間、そこに指先を通じて彼の熱がじわりと伝わってくる。(次は、わたしの番だ)震える指先で彼の指輪を掴み、その少し節の太い指へと静かに押し進めた。「・・・これで・・・やっと・・・やっと・・・私たち・・・」「夏美ちゃん、まだだよ、まだもう一つ・・・」まっすぐに見つめてくる彼の瞳には、ステンドグラスの七色の光彩が揺らめいていた。指輪が根元までぴったりと収まったとき、ふたりの手が自然と固く結ばれる。牧師の静かな促しに応え、陽が夏美に向き直った。夏美の母が慈愛を込めて降ろしてくれた、あの繊細なレース。陽の手が優しくその裾をつかみ、ゆっくりと頭上へ持ち上げていく。ベール越しにくすんでいた世界が、一気に鮮やかな光とともにひらけた。「・・・すごく、きれいだ・・・」陽が小さく漏らした吐息のような言葉に、胸がぎゅっと締め付けられる。「ずっと、ずっと・・・この日を・・・」「うん、二人で幸せになろうね」「・・・うん、陽君ありがとう」そう言って愛おしそうに目を細めた陽の顔が、ゆっくりと近づいてくる。そっと目を閉じると、重なったのは触れ合うだけの、風のように柔らかで温かな唇の感触。それはほんの数秒の出来事だったけれど、まるで時間が止まり、ふたりを包む世界全体が柔らかな光の粒子となって溶けていくような、圧倒的な幻想の中にいた。そんな一瞬の時間、夏美には、これまでの陽と歩んできた出来事や、貰った絵が浮かんでいた。ゆっくりと離れた彼の瞳には、どこまでも深く、揺るぎない愛が宿っていた。「愛してる、夏美ちゃん」「わたしも、陽君」ふたりだけにしか聞こえない声で重ねた誓いに応えるように、パイプオルガンの歓喜の音色が鳴り響き、祝福の鐘の音が、波のように広がっていく。光の満ちる聖堂の中、繋いだ手に力を込めながら、二人は重なる未来へと向かって、二人で大きな一歩を踏み出した。二人のデッサンは、完成した絵となった。美しい絵を描き上げた。二人は新しい絵を描き始める。(つづく)