
ナンバー1の実力を持ちながら、ナンバー2で終えた軍師 官兵衛。
官兵衛を知るということは、秀吉をより知るということにつながっていきます。
徳川家康、織田信長、豊臣秀吉。
豊臣秀吉は一番好きな武将でしたが、足跡をたどるうちに、秀吉はやはり只者ではない。
という思いを強くするのです。
黒田官兵衛は鳥取城攻めのときは、有岡城に幽閉された後で、足が不自由になっていたのですが、官兵衛の砦は、鳥取城に近い重要な場所、現在の湯所あたりでした。
太閤ヶ平からの鳥取城跡
黒田官兵衛ゆかりの城めぐり①兵糧攻めの鳥取城に立つ
鳥取城跡はこちら
1.5キロの距離なので、声も聞こえ、様子も手に取るように見える距離。
ここで、飢えに苦しむ人々を、観察していたのかと思うと、おぞましい気もします。
鳥取城内に逃げ込んだ城下に人々や、兵士の悲惨状況を想像するだけで心が痛みます。

太閤ヶ平のある場所は、中国自然歩道となっていて、一般車両は通行できません。
鳥取東照宮から徒歩40分ほどで太閤ヶ平まで来れるそうです。
土塁の跡が残っています。
太閤ヶ平の真ん中辺りまで、雪の中を漕いで行ってきました。

★太閤ヶ平(たいこうがなる)
羽柴秀吉(のちの豊臣秀吉)による第二次鳥取城攻撃の際に造営された。
秀吉の本陣が置かれた帝釈山は後に、「本陣山」と呼ばれるようになり
陣城跡は鳥取城と並び国の史跡指定。
秀吉が陣を組んでいた場所。
攻城戦は4か月に及び、織田方の巧みな経済封鎖により、食糧の不足していた鳥取城内では、籠城2か月目にして食糧は尽き、牛馬や壁土、果ては餓死者の人肉まで奪い合うという飢餓地獄となったのだそうです。
時の城主、吉川経家は惨状を見るに忍びず、自らの命に替えて城兵を救うという条件で、城下の真教寺で自刃。
備中高松城の清水宗治とともに、戦国武将のかがみとして、後の世に長く伝えられてきました。
備中高松も行ってきました。
二人の武将は、今の時代を生きる私からみても、潔く、美しく、士らしい生き方と思うのです。
長門(山口県)の壇ノ浦の戦で敗れた平家の依頼により、平家の菩提を弔う為に鳥取久松山の中腹に草庵を建立したのがはじまりの真教寺。
法事で何度か訪れていた真教寺さん、由緒あるお寺であることは知っていましたが、やっぱりこの旅は先祖に呼ばれるべくして呼ばれた気がしました。
赤い○ 現存する秀吉方の陣城。
青い○ 消滅したと推測されす秀吉陣城。
黄色○ 毛利方であったが秀吉が接収、改修した可能性ある陣城
姫路を6月25日に出発し、7月12日にはこのような陣営を築いていたという秀吉。

見えている砂丘は鳥取砂丘ではなく、鳥取空港近くにある砂丘だそうです。
現在の鳥取市には城のようにそびえたつ、鳥取県立赤十字病院が。
太閤ヶ平(たいこうがなる)からは、鳥取城はもちろん、鳥取市内もよく見えるのです。
鳥取城の本丸もしっかり見えるので、食糧を調達する道を閉鎖してしまえば
後は待つだけ。。。=鳥取の渇え殺し
吉川経家らが切腹、開城となり、篭城していた者達は助け出された。
篭城した者達は、餓鬼の様に痩せ衰えていたので、秀吉が粥を炊いて与えたところ
皆一様に食べ過ぎ、大半の者達は頓死してしまった。
秀吉は、この戦いでの勝利をとても自慢していたそうです。
歴史は実に残酷です。
が、史実をしっかりと知ることは大切なことと思うのです。
太閤ヶ平の後は、池田藩の祈願所へ
黒田官兵衛ゆかりの地をめぐる旅⑤池田家祈願所『観音院』でお抹茶

姫路、岡山、鳥取城下町推進協議会 / 黒田官兵衛ゆかりの城をめぐる山陰・山陽の旅
まとめの目次
SPECIAL THANKS
鳥取市教育委員会・文化財専門員 細田様
ご案内いただきありがとうございました!

