人には絶対、どんな場面でも“逃げ場”は必要ですよ。
あまり有名でない、武者小路実篤の詩ですが、あなたなら、この詩をどう読み解きますか?
逃げ場 武者小路実篤
その一
自分は逃げ場を持っていないと、生きていられない人間だ。
自分はよく不安になる。それは自分のような人間は、生きていても仕方がないという不安だ。
こういう時、自分はよく自分よりすべての点で劣っている人を捜し出す。
そうしてその人の得意に生活しているのを思う。
そうしてあの人でも生きているのだから、自分も生きていていいと思う。
あの人でさえ得意でいるのだから、自分も得意で生きていよう、そうでないと損だと思う。
これが一つの逃げ場だ。
その二
またこういう逃げ場に逃げこむことがある。
それは、自分が死んでも始まらないということである。
自分が死んだって誰も幸福にはならない。母が悲しむぐらいが落だと思う。
生きても始まらないが、死んでも始まらない。どうせ始まらないなら生きていようと思う。
どうせ生きるなら愉快に生きよう。くよくよしても始まらないと思う。
これが一つの逃げ場だ。
その三
またこう思う時もある。
自分のような人間でも、少数の人には存在していた方がいいと思うことだ。自分と同じような人をいく分か慰めることが出来ると思うことだ。
こう思った時に、自分は謙遜なおとなしい人になる、小さい善人になる。
そうして小さい良いことを、陰になり、日向になりしてする。
そうして自分を憐み、淋しい気持を味わいながら、小さいヒロイックの感じを味わう。
その四
またこういう時がある。
なに、自分だって、そう見捨たものではない。今にどんな人間になるかも知れない。
そう、自分に見切りをつけるのは、自分をつくったものにすまない。
生きるだけ生きて見よう。出来るだけのことをしてみよう。
それで駄目だったら、出来るだけのことをしたのですが駄目でしたと、死ぬ時に叫ばう。
さぞ淋しいだろうが、自分を冷笑する所に一種のヒロイックな感じを味わうことが出来るだろう。
その五
また、こうあきらめる時もある。
自分は生れたいといって生れたのではない。自ずと生れたのだ。
自分に自分の責任はない。生き甲斐のないのは、自分の罪じゃない。
自分は生き甲斐のないのはいやだから、出来るだけのことはやってみる。
しかし駄目だって自分が悪いのじゃない。生れた以上は生きてゆく権利がある。
その六
またこう思う時がある。
自分はある意思によって生れた。自分は或る意思によって自分の個性を与えられた。
自分は或る意思によって死の恐怖を与えられている。生きたくつくられている。
何を好んで死ぬ必要があろう。いくら淋しくたって、いくら不安だって、自分は生きていく義務がある。死ぬ時までは生きてゆく、威張って生きていくべきであると。
その七
またこう逃げる時がある。
自分は自我の前に跪く。自我を発展さすだけ発展させないのは卑怯である。
自我が発展する限り発展させて、それでつまらなかったら、運がわるいのだ。
自分は自分に与えられたる運命を甘受してみせる。出来るだけ甘受してみせよう。
自分は生きる、生きられるだけ生きて見せる。そうして発達する限り自分を発達さて見せる。
それが最も男らしい。そうして自分の出来る最も大きい仕事ではないだろうか。と。
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自分は自分の生きる甲斐のない人間と思う時、多くは以上の逃げ場の一つにかくれる。
その時の一番適当な処にかくれる。
自分は、なぜこう時々思うかというのに(は)、自分は余りに社会的の動物であるせいか、自分は他人の為にならない、つまらぬ人間だ。他人にとっては無価値な人間だと思うと耐えられない不安な感じ、生き甲斐のない感じをもつ。
自分のような人間は、穀つぶしだと思う。しかして自分は他人の為に価値ある人間とは思えない。従ってよく生き甲斐のないことを思う。なぜそんなことを思うのか知らないが時々思う。
そうして淋しい、なさけない感じがする。自分にはこれが人情だと思う、もっと進んで社会的の本能だと思う。
他人のためにつくせると思う時自分は一種の安心を得ている。別に人生の意義を考えもせずに、自分の一生の生き甲斐のあることを感ずる。
しかし今の自分にはその自信がない。その自覚がない。
従って、生きていることをすまないように思うことがある
そういう時に、以上言ったような逃げ場にかくれる、
そうして一種の悲壮(他人から見ると滑稽で、自分では真面目な)を感じる。
そうして男子なる自分は、逃げ場に逃げながら悲壮な感じを味わい得ることを喜ぶ。