2023年11月29日のことです。
大変長らく更新してきた2023年秋のお写んぽ洛旅も終わりに近づいてきました。
広大な敷地の上賀茂神社を後にしまして。
こちらに凸💨
上御霊神社の由緒
正式な名称は御靈神社(ごりょうじんじゃ)で、京都御所の南東にある下御霊神社に対応して上御霊神社と呼称される。祭神として崇道天皇(早良親王)、吉備真備(きびのまきび)、橘逸勢(たちばなのはやなり)はじめ十三柱の神霊を祀る。この地には、はじめ付近住民の氏寺として創建された上出雲寺(かみいずもでら)があったが、延暦13年(794年)平安京奠都(てんと)に際し、桓武天皇の勅願により王城守護の神として、奈良時代・平安時代初期に不運のうちに薨(こう)じた八柱の神霊を祀ったのが当社の初めである。後に明治天皇の御願により祭神五柱が増祀され、平安時代には御霊信仰(天変地異や疫病流行は怨霊のたたりであるとする信仰)が盛んで、この怨霊をなだめ祀るための御霊会(ごりょうえ)が数々行なわれたが、当社は古来疫病除の霊社として有名である。このため創建以来朝野の信仰が篤く、とくに御所の守護神として皇室の尊信が深い。本殿は享保18年に下賜された賢所(かしこどころ)御殿の遺構を復元したものであり、また当社には神輿・牛車等皇室の御寄附品多数を蔵する。 境内は『御霊の杜』といい、応仁元年(1467年)1月18日に畠山政長と畠山義就の後継者争いが発端の合戦が行なわれた『応仁の乱』の勃発の地である。
※ 京都観光Naviより抜粋編集
だそうです。
上御霊神社の入り口は南側と西側の2箇所あるのですが表参道ということで西側の、この鳥居から入ります。
鳥居の額束や島木には菊花紋があしらわれていて、当時の朝廷との関わりが窺えます。
そして鳥居から見えている。
楼門(西門)
楼門へとテクテク。
それにしても今回のお写んぽ洛旅は、ありがたいことに全日に渡り好天に恵まれました。
宿や交通手段などは直前だと予約で一杯か、またはべらぼうな高値になってしまうので(いつもなら3,000円代で予約できる宿が18,000円くらになっているのもザラです)、早めに予約するのですが、当日に悪天候だったり食べ物屋さんが臨休だったらggという。遠征は毎回とにかくギャンブル性がマシマシです(笑)
注. ggはゲームをやる人なら意味が分かりますよね😅
はい。
屋根裏マニアには堪らない景色です✨
提灯アップ。
手水舎
手水舎。
手前に見えている黄色い葉の木が。
平成天皇即位20年に記念植樹された楷樹というもの。
本殿
本殿ド〜〜ン‼️
唐破風屋根に威厳を感じます✨
拝殿
拝殿は、銅板葺で妻入入母屋造の舞殿風な意匠です。
応仁の乱 発端の地の石碑
そして応仁の乱の発端の地の石碑。
この上御霊神社の御霊の森で文正2年(1467年)に失脚した管領・畠山政長と従弟・畠山義就の私闘が行われて、この御霊合戦が応仁の乱の前哨戦で、ここが応仁の乱の発祥の地とされています。
ちなみに当時の御霊の森は現在の約2倍の広さだったそうです。
ちなみに、この石碑の文字は細川勝元の末裔、細川護熙元総理の揮毫です。
紅葉と散り銀杏
その他、見所はまだまだあるのですが、とにかくこの時は脚が棒になるを通り越して疲労感マシマシでヘロヘロな状態だったので、上御霊神社での応仁の乱石碑の他に、もうひとつあるお目当てスポットに向かう為に本殿の裏手にまわります。
途中↑の写真のような綺麗な紅葉があり期待が高まっていましたが……
猫車の取手部分に熊手があり荷台にはフゴ袋。
そしてフゴ袋の上には手箕(てみ)が……
もしやと思いながらSNSでよく見る場所に着くと。
はい〜食らっちゃいました〜😅
↑の写真をただ見ると、綺麗な紅葉の写真なのですが……
ネットの拾い写真ですが、お目当てだったのは↑のような状態でした。
ちなみに前日まで毎日、XやInstagramなどでリアルタイムの状況をチェックしていて、終わりかけだなというのは分かっていたのですが……
まさにタッチの差で掃き清められていました😅
まぁこういうことが有るのも旅の醍醐味ということで、またタイミングが合えば来たいなと思いながら次に向かいました。とさ。
ちなみに、この最終日だけで疲労の兼ね合いにより、予定していたところを3箇所すっ飛ばしています(笑)
ではでは👋