(投稿先)

余命三年時事日記ミラーサイト

・944島崎~

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宗教について。

日本人の「神道」は単に宗派宗旨という以上に「日本人の伝統的な宗教観念そのもの」なのだと思う。

そして主要な古来の神社や伝統的な仏教寺院(やカトリック教会)などの「公宗教」は、創価学会や統一教会などの私的宗教・カルト邪教とは根本的に異なるものであって、国民公共の精神的インフラであり、国民と地域の自治・福祉や互助・相互連絡の準公的組織であるはずである。

冠婚葬祭などは神職・僧侶の組合で行うべきだし、火葬場が外資に乗っ取られているなど論外である。もし自前で運営が困難な神社やお寺などは自治体に委託や譲渡して、公民館や図書館・児童館などにしても良いだろう。


宗教について。(続き)


哲学や教理の概観として。

まず第一に、天照大神(国家守護・日本専属の最高神)は「世界創造者」ではなく、ヨーロッパの哲学ではむしろ「天使」の一種に該当する。日本の「神(かみ)」という言葉は、創造者(天)・天使・聖人・英雄・精霊の包括概念。古事記などでも、天照大神以前の善神たち(創造者や天使)の存在は書かれており(外国や世界各地に分業・赴任した?)、天照自身に「天(創造者)や他の(外国含む)善神たち(天使や聖人)を祀る日本の最高神官」という属性がある。

だから日本人は聖徳太子以後に仏教や儒学などの「外国の神々(天使)や聖人」が移入されても、それらを従来の神道と併修して何ら矛盾を感じなかった。

そして、たとえばチベット仏教徒が仏陀よりダライラマを第一に信頼するのと同じで、日本人が天照大神や稲荷(土地・郷土の精霊神、伊勢外宮の豊受姫の亜種)や聖徳太子・仁徳天皇や八幡宮(天皇の英霊)・天満宮(菅原道真)などの聖人を優先・第一に信頼するのはごく自然な態度だろう(ヨーロッパのキリスト教徒でも、自分たちの国や郷土の聖人は別格で重視されるのと同じである)。


東大寺の大仏や高野山の密教などもそうだが、それらは直属の檀家・信者だけでなく、日本国民を代表してその祭式・論説や祭礼祭祀を保持している。そうだから他宗派の日本人にも参拝を許されて、折々に祝福儀礼や供養を与えるのも有効とされる。

キリスト教で日本の公宗教(神道と併修可能・両立する学派・宗旨・組織)に該当するのはカトリック教会であって、既に聖ザビエル以来に五百年の歴史と実績があり、素性や本山・出所もはっきりしている。おかしな「自称キリスト教徒」の邪教悪行の輩とは区別して考えるべきで、神宮などからもバチカン教皇庁に諮ってみてはどうかと思われる(東方三博士の前例もあるのだから)。

この際にイスラム教徒などについても「大明王(聖人)ムハンマド」としてメッカやトルコに神宮から問い合わせ、在日イスラムの有志に中東などへの医薬品の人道援助などを担当させてはどうか?


宗教について(補足)

一般的に、伝統的な宗教には二つの存在理由があるように思われる。


まず一つにはさっきに書いたとおり、国や地域と国民の自治・互助・連絡と公益事業・行政の補助の役割である。これはヨーロッパのキリスト教でも日本の神道や仏教でも同じことである。


ローマ帝国終盤からのヨーロッパ世界を文明破滅から救い、再生させたのはキリスト教会(ローマカトリック教会)の互助・連絡や教育・規範意識と倫理観が大きく功を奏している。一時的・一面に原理主義の過激さや独善と人間の愚かさによる悪行も目立ったとはいえ、大筋ではそうだと考える。イタリアルネサンスの時期には修養と薫陶が成熟してきて、それまで忌避していた古代ギリシャローマの文化を洗練・純化して長所のみ選択的に再活用するようになったようだ。欧米のプロテスタントやピューリタンのような各国の新宗派はその伝統からの分派であって、日本や韓国などの「自称キリスト教徒プロテスタント」のような表面のみ偽装した根なし草・新興カルト宗教とは似て非なるものだと思われる。

日本の場合、たとえば天台宗延暦寺や禅宗寺院などは教育・学問研究機関や文化センターのような一面があったはず。高野山なども、弘法大師が治水工事などで活躍したのは知られているし、高野聖(ひじり)は行商・物流なども兼ねていた。浄土なども新田開発の音頭取りや農村の自治会を兼ねていた。神社なども都や相互との連絡センターだっただろうし、仏教寺院などと同様に国や地域の公益と自治に貢献していたはず。

もちろん堕落や負の側面もあったとはいえ、そういった国民・地域住民たちと共に築いてきた実績と歴史があるのであって、伝統継承と精神的財産でもある。ゆえにそれらを単純に宗教洗脳ビジネスの新興カルト宗教と同じに考えるべきではないだろう。


宗教について(補足の続き)


かく述べたように、神社や寺院は天皇・朝廷などと共に、日本の歴史を裏と側面から支え続けた「サブネットワークや支柱」であった。

なお余談ながら私は日本の「天皇」の政治権能というのは、古代ローマ皇帝やアメリカ大統領のような直接的権力というよりは、むしろ元老院・上院の議長に近いものだと思っている。緊急時には天皇が陣頭指揮するわけだが、それは強力な緊急時体制・切り札であっても、長期化すれば負担加重や分業・連携バランスが崩れて失敗する(建武の新政と昭和動乱)。


さて、公宗教の存在理由の二つ目。

それらが伝統的な規範意識・倫理観や経験知に結びついているということだ。カントの「実践理性批判」ではないけれども(※)、たとえ迷信や天国地獄の観念を信じていなかったとしても、人間の個人や集団としての規範意識まで無になるわけではない。

仮に霊魂やあの世を全く信じていなかったとしても、先人や英霊を祭った神社を訪れたりすれば、伝統的な前例や規範の意識から敬慕や畏敬の念を抱くのは、人間の自然な感情だろう。共産主義者(無神論)ですら、指導者の墓廟を祭って参拝して喜んでいるのであるから。


(※)「神は一つ」というが、そうでなければ「普遍性を持てない」のだし、物事を突き詰めて考えれば「究極の一つ」に辿り着くのは必然である。だが人間というのは抽象的・観念的な次元でのみ生きているのではないから、必然的に天使や聖人(日本の神道や古代ギリシャの「神々」ような)を容認するしかなくなる。

ゆえにカトリックや神道のような「多神教的一神教」は、宗教が発展習熟すれば必然的にとる形態だと言えるだろう。











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☆追加記事と気になること

以上、余命三年時事日記ミラーサイトの記事コメント欄に提言した小論。当方は既に活動終了しているのだが、必要と考えて追加でコメント・記事投稿している。

なお、私は瀬戸弘幸氏や既存の職業的な保守派について、少なからず疑念を抱いているところもあったりする。










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※こちらも活動終了ですけれども。