昨今の社会事情と難題を主に扱っているわけだが、そういうテーマは必要ではあるものの、筆者にとっても読者にとっても、さながら「(世の中の)汚物溜め」を凝視しているようなものである(特に、今は言葉にして口に出すのも嫌な「あの連中」のことなどは……)。Web保守の人たちだって、仕方がないとはいえ、そんなものにばかり釘付けられては仕舞いに吐気や眩暈がしてくるだろう。……だから、たまには気分を変えてみよう(破滅生活の自棄自堕落でエロ動画などばかり見ていると、そのうち脳が腐る危険があるから、私もたまには頭を使おうw)。

 そこで今回は[日本史初級]の連続掲載企画の姉妹編ではないけれども、少しばかり「西洋哲学」を扱ってみる。一般に西洋哲学といえば、古代ギリシャとドイツが有名である。ひとまずここでは、私が理解している範囲での、ドイツ哲学の概観とあらましを順次に大雑把にまとめて述べてみたい。

 

 

  1. ドイツ観念論(ドイツ理想主義)の創始者カント

 事の発端は、文豪ゲーテなどと同時代の哲学者カントの創始による流派。基本的には「理性的な進歩史観」の立場に立つ、近代ドイツの学派である。理知的かつ良識的な近代的キリスト教徒らしい非常に洗練された考え方で、現代人の潜在的な良識と言って過言でない。

 かつて大昔の日本では中国の儒教が「学問」として移入されて血肉となったが、実はドイツ観念論などの近代西洋哲学(根底にキリスト教がある)も、明治維新以後の文明開化で移入されている。日本人の気質なった面は、おそらく無自覚の内に取り入れられて息づいているはずだ(キリスト教には儒教同様、直接的には神道や仏教を信仰する日本人にとっても「学問的(倫理学的)価値」があると考えられる)。……特にドイツ観念論は日本でも人気があり、気質にも合っている面がある(イギリス・アメリカ流の経験知重視の哲学も合わせて学べば完璧だろうが、私はあまり詳しくない)。特徴として「原理原則の重視」というのが、その基調となっている(早い話がドイツの哲学・哲学者全般の傾向は、おおむねドイツ人らしく原理原則主義で意志強固で非常に頑固で無意味なまでに堅忍不抜な面があり、自分の性格傾向などもその悪影響で、潜在的に数段階は無駄に「強化」されているとしか思えないw)。

 どこまで現実に適応するか、できるかは別として、やはり基本的な思想として知っておき、最低限はどこかしらで念頭に置いておくべき基本教養というのは存在する。……近年の中国のモラル崩壊も、一つには儒教・道教といった、良い伝統である倫理的経験知を考えなしに全放棄・破壊し尽してしまったことが最たる原因であると思われる。古臭い面はあるとはいえ、一種の「経験知」みたいなものでもあり、たとえば『大学』のような基本的な儒教教本だけでも踏まえていたら、現在の中国の指導者たちのような愚昧な行動を取るとは思えない。だから我々日本人と台湾人(及び在外華僑)は、彼らの失敗の二の徹を踏んではならない。

 

 

2.カントの哲学のあらまし

 カントは哲学を主に二つのジャンルに分けて考えた。一つは「自然哲学=科学」であり、もう一つは「道徳哲学=倫理学」である。つまり科学的な意味合いでの真理や法則と、倫理的な意味での真理や法則は別物であるということ。

 よく人は「善人が不幸になった、悪人が成功している、理不尽だ、神も仏もない!」と絶望する。しかしこれは、科学の「自然法則」と倫理の「道徳法則」をごっちゃにした結果の、錯乱した見解の戯言である。……よくイタリアのマキャベリは政治(実際の政治の権謀術策)と倫理(道徳的な理想)を分けて考えたと言われるが、カントの場合は科学と倫理を分離して考えたわけだ。

 つまり、たとえそいつが善人であったとしても、車に轢かれてグチャグチャになったら死んで当たり前だし、飢饉とかの際に自分の持っている食べ物を自己犠牲で全部他人に分け与えたら餓死するに決まっている。それは「自然法則」の真理でしかなく、倫理上の道徳法則とは「全く別の問題」なのだ。……そしてたとえ自分が餓死寸前であっても、手近な食べ物やお金を盗んだら動機や理由はあっても「(倫理的に)悪い」に決まっているのである。そしてたとえ汚濁の世間で生きるためにであっても、不正を働いたら「悪い」に決まっている。言い訳や情状酌量の余地はあっても、「悪いことは悪い」のである。そして逆に言えば、たとえ仮に「自分にとって不利益でも倫理的に正しい行動をとる」のが、観念的な理念である「道徳法則」を敬うことである。

 そしてカントはこの「自然法則」と「道徳法則」の間の乖離という重大問題を埋め合わせるための人間の知的能力として「判断力」、つまりは価値観や美意識の問題を提示した。……一般の哲学史の解説書などでは「認識論(自然哲学)」の『純粋理性批判』や「道徳哲学」の『実践理性批判』の解説に焦点を合わせたものが多く、しばしば省略・無視されがちなようだが、ちゃんと『判断力批判』という著作が別にあり、三つ合わせて「三批判書」と総称される。

 

 

3.カントの認識論(自然哲学)

 あいにく私は『純粋理性批判』を読んだことがない。けれども、哲学の解説本など見ると大抵は大きく扱われている話題であるし、大雑把にあらましだけ述べておこう。また『純粋理性批判』は長すぎるため、実はカント自身が書いた一種の「簡略版・要約版」として『プロレゴメナ』という本があったりする(こちらは以前に自分もどうにか目を通したが理解の程度はすこぶる怪しい)。

 

※なお余談だが、岩波文庫版の『純粋理性批判』(篠田英雄訳)は木田元(ハイデッガーなどの現代哲学の研究で有名)などから「誤訳が多い」という批判が出ており、Amazonの書評などでも文句があるようだ。膨大な分量を単独強行軍で翻訳したようなので、翻訳作業の過負荷からしたら無理もないかもしれない。……ところで実は、この篠田氏はカントの主要著作の大部分を翻訳しており、それらの訳書は岩波文庫で簡単に手に入る。これはドイツ人のショーペンハウエルも指摘していることだが、一般にドイツ語は文法的に文がダラダラ長くなる傾向があり、フランス語の著作の訳書などに比べても読みづらい場合が多い(同じ哲学書でも、フランス人のデカルトとかの翻訳本と比べたら良い)。だから読みづらくても、それは必ずしも篠田氏の責任とばかりは言えないことは予めご理解を。

 

 このカントの「認識論」というのは、いわば物体や世界の把握・認識の逆転の発想である。つまり、「物」だの「世界」だのは人間にとってあるがままに認識されるのではなく、人間の精神の能力の一つである「悟性」が先天的に備えている「認識カテゴリー」=「物や世界を認識するための、知覚の枠組み」によって、主観的な「現象」として把握・知覚されているのでしかない。カントの認識論・自然哲学理論では「時間」や「空間」でさえも、主観的な認識の基礎的な枠組みでしかなく、さらには「量」だの「質」だの「様相」だのが「認識カテゴリー」として考察される。……ゆえに人間は「物自体」を直接的には認識できず、知覚出来るのは「現象」だけでしかない。これはドイツの現代哲学にまで続く、一つの基本的な大前提の発想、哲学における伝統にすらなっている。

 そして加えて「神」などの伝統的な哲学的な難問も、その独特な「自然哲学・認識論」の立場から考察される。「神がいる/いない」という相反する証明が、理屈の上では両方とも可能であることが実証・説明され、それを「二律背反(アンチノミー)」の問題と呼ぶ。

 それではなぜ、そんな不可解なことになるのか?

 それは、人間が「悟性」の能力的な限界を超えて、本当の意味では(人間という種族の知的能力では)把握不可能な事柄(神様とか……)までを、無理矢理に哲学的な考察の対象にしてるからである。……つまり純粋に科学的な観点からすれば、そもそも「世の中に神や仏がいるかどうか?」などという問題は、真面目に考えるだけ無駄であるということ。

※詩人のハイネは『ドイツ古典哲学の本質』(岩波文庫の赤帯・文学書ジャンルで訳書あり)で、「フランス人は革命で王様の首を切り落としただけだが、我々ドイツ人のカントは神の首を切り落とした」と誇っている。

 

 

4.カントの道徳哲学(倫理学)と後代の付加考察

 さて。……カントの哲学では認識論(自然哲学)と倫理学(道徳哲学)は、体系としての関連はあるとはいえ、多分に別の問題であって、相互に違う「法則」に支配されている。

 この面での著作が『実践理性批判』である(手頃な入門書である『道徳形而上学原論』もある)。そこでは「神」や「魂」などの問題が、倫理的な価値から再検討され、一種の理念や信仰として再評価・承認される。……善人は救われ、悪人は地獄に落ちる。そうでも思っておかないと人間生活はやってられないし、実際にそういう思想を持っていても害はないし、世の中にとっても非常にプラスになる理念である。

 そもそも「道徳法則」という考え方自体からして、客観的・科学的に見れば一種の信仰や信念の対象でしかない(人間的・倫理的な真理は、科学的な意味での真理とは意味が違う)。それでも信じるのは、それこそが人間に「理性」がある証拠だからなのである。そして信念である「星空のような道徳法則」を見上げ仰いで顔を上げ、個人的な行動原理である「格律」をそれと一致させるように努力して生きましょう。……ごく穏当でありきたりだが非常に理知的・良識的な考え方であり、高邁な姿勢の見本のようなものだと思われる。

(追記)実践理性批判では「神」や「魂(の不死)」の概念は、道徳哲学上の必要性から語られる。人間が正気を保って倫理的であるためには、そういった観念が必要であるとのこと。ヘーゲルなど(ニーチェも?)はカントが危惧した一種の全能の誇大妄想的な狂気に陥っている節もあるのだけれども、それこそがある意味では現代的な精神文化の状況と課題であるのかもしれない。

 

 ちなみに古代ローマ帝国の時代に「ストア派」という哲学の流派があった。宰相を務めた哲人セネカは「人間は神々と存在する時間的な長さが違うだけで、その本質に大差はないのだから、天の神々を模範として高邁な精神を持って生きよう」といった趣旨のことを言っている。……カントの言う「星空の如き道徳法則」を模範として、個人としての行動原理である「格律」を高尚に保とういう理屈と、あまり大差はない。

 ただしここに留意すべき問題点が一つある。

 セネカの哲学で最高の模範として挙げられる「神々」にせよ、カントの「道徳法則」にせよ、おそらくは人によってイメージするものはかなり違うだろう。属している国や民族の文化にもよるし、また個人個人の性格や教養によっても差異がある。……「神々」や「道徳法則」いわば「空の箱」のようなものなのだ。その具体的な中身については、読者や信奉者に委ねられている面が大きい。「神々」にも、キリストのような自己犠牲の神やアマテラス(天照)の様な一視同仁と皇恩護国の神もあり、さらには生贄を要求して快楽の限りを貪り尽くすだけの原始的な邪神さえもある。……一部の特殊な国・民族(あえて「何処」とは言わないが……)では、手段を選ばずに嘘を吐いてでも特定の隣国を中傷して貶め、不法狼藉と詐欺を働くことが「道徳法則」なのだ(そもそも虚言や裏切りや卑劣行為を悪徳だと思っておらず、むしろ手柄だとさえ考えているのであるから始末に負えない)。

 だから結局は、実際の最終的な行動の決定・判断は個人個人の良識や美意識に委ねられていることになるわけで、カントの倫理学はあくまでも「高邁な思考・信念の基本的な枠組み」を提示するものである。日本やドイツ、その他のヨーロッパ諸国など、ある程度の民度や文化がある国や民族でなければ、おそらく意味を成さないと私には思われる。

 この面での空虚さは「ドイツ観念論の大成者」とされるヘーゲルも指摘している(『精神現象学』で、カント哲学の不足を指摘している)。けれどもこれは、ヘーゲルの勘違いでないかという気もする(理由は先の「5」の項目で述べる)。

 さらにはまた、後世のニーチェも「道徳法則の形骸化」問題を暗に批判しているようだ。ニーチェはしばしば道徳破壊の危険思想のように受け取られるが、必ずしもそうではないと私は考えている。世間一般の「道徳法則」はしばしば杓子定規で偽善的になりがちだし、たとえ無意識に内面化されたモラル(=「良心の後ろめたさ」)が身についていても、はたして本当に自分がその深い意義を理解しているのか、はたして本当に適切で妥当なのかという問題は残るだろう。……そこで個人の「主体性」が大事になり、自分自身が本当に「良い」という結論まで真剣に考え抜いて、「これが良いのだ!」と自ら信じる道を選ぶことが課題となる(周囲から理解されず、「悪」とされる場合もあるだろうが)。だからニーチェは別に「倫理や道徳を全否定・放棄して、安易にその時々の衝動や欲求に従い、無茶苦茶やって好き放題に堕落せよ」などと説いてるのでは絶対にないと私は思う。

 

 

  1. カントの『判断力批判』

 そこで「美意識」や「価値観」が問題になってくる。このことを扱った著作が『判断力批判』で、当時のドイツの文豪のゲーテはこの著作を絶賛してるらしい。

 前半・第一部で「趣味判断=美意識」の問題が検討され、「美と崇高の関係」だの、「美は善のだ用品としての価値を持つ」だのが検討される。これはどちらかと言えば、個人の判断力のことを話題としているが、ドイツ的な美意識・カント自身の考え方が出ているようにも思う(「崇高」を「畏怖」と結びつけるような考察部分など、特に……)。

 さらに後半の第二部では「理性の目的論」という価値観が提示される。これは啓蒙主義時代の「理性」への信頼であり、人類の進歩への確信なのではないだろうか。……西洋の「目的論」的思考は根が深く、実は古代ギリシャのアリストテレスにまで遡る。それはキリスト教的な歴史発展の考え方(世界創造から終末へと歴史は進む)に影響を与え、その文化圏の近代人であるカントには「理性には崇高な目的があり、人類の歴史の進歩を導いてくれる!」という大前提的な確信があった(当時の風潮を大きく反映していると思われる)。

 さらに「付録」として、理知的に再解釈された近代的なキリスト教の価値観がまとめられている(岩波文庫版『判断力批判』下巻の後半部分を参照)。それがあえて「本論」でなく「付録」と銘打たれた(?)のは、「三批判書」を通じて理性の能力をトコトンまで理知的に批判・検討したカントが、その自己の価値観と信念の信仰表明に等しい小論文が、しょせんは理性による認識の限界を超える信念・理念・願望でしかない事柄だというふうに、冷静に自己批判した上での分別としてそうしたのだろうと、私には感じられる(冷静で理知的なカントは、その理念目標や価値観が、人間理性の限界を超えた信仰であることを自覚していたのだ)。

 

 後のヘーゲルは「感覚」から「絶対知」に至る精神の発達過程を哲学体系としてまとめようとしたようだが、一枚打ちに仕立て上げようとした見事さの反面、現実の理性の働きと願望的な理念・価値観の区別がかなり曖昧なようにも思われる。むしろ冷静に考えられる理性の作用と理念(価値観)が渾然一体となって歴史に投影されており、逆にそこにクールなカントとは違う、ヘーゲル風の情熱的な魅力があったりするのでないだろうか(ヘーゲルでは、「理性」の意味と力が拡大解釈されているように感じられる)。

 日本でこの『判断力批判』やヘーゲルよりも『純粋理性批判』や『実践理性批判』が重視されるのは、キリスト教色が強すぎる前者よりも、理知的な「普遍的な人間理性の枠組み」研究としての後者の方が理解しやすく、より直接的にも有意義だからでないだろうか。

 しかしこの「近代的な『理性』主義」の考え方はその後のドイツやヨーロッパに強く残っただけでなく、おそらくは日本にも波及していると思う。それというのは、たとえ直接でなくても、ヨーロッパの著作の翻訳などを読んでいれば、自然に意識に刷り込まれるものだからだ。……現代では懐疑されて批判検討もされているとはいえ、依然として現代の考え方と良識の基調の一つであることに変わりはない。

 少なくとも、無政府主義的な人間理性否定と社会や家庭の破壊の礼賛よりは、カントの倫理学(+自前の「日本的な精神文化・教養」)の方が百倍マシではないか。だいぶ前にドイツ人(?)の禅僧が日本の民度と精神文化を絶賛した本を書いていたのを書店で見かけたが、逆な組み合わせとしてドイツ哲学と日本人・日本文化もかなりの程度まで相性がいいのでないだろうか。