今回から三日目。

 

窓から早朝の松江城天守。

 

こちらがリアルタイム旅行記

 

まずは再びやってきました黄泉比良坂。

いざ、あの世のとの境界へ…

 

おや…?

なんか今回は張り詰めた空気も悪寒も感じませんね…

近年、黄泉比良坂の紹介記事をよく目にする様になったので訪れる人が増えたんでしょうかね?

そのおかげか、そういった空気は感じられなくなったんだろうか…?

 

この二つの巨石のどちらかが千引石と思われるのですが…

島根県の公式案内にも「黄泉の国への入り口をふさいだ岩を思わせるような大きな岩が並び」

としか明記されておらず、どちらなのか謎のまま…

そもそもこれが本当に千引石なのかも不明…

 

前回はここを潜り抜けた瞬間に生き返った気分になったんですが

今回は悪寒も何も感じなかったので特に何も変わらずw

 

そして、更に謎を呼ぶのがこれなんですよねぇ…

 

この道が伊賦夜坂だそうなんですよ。

古事記の記述には

故、其所謂黄泉比良坂者、今謂出雲国之伊賦夜坂也。

(故、其の謂はゆる黄泉比良坂は、今、出雲国の伊賦夜坂と謂ふ。)

つまりは伊賦夜坂=黄泉比良坂ということ。

やはり黄泉国への入り口が先ほどの巨岩で、黄泉国へと到る道がこの伊賦夜坂と考えるのが妥当だろうか。

現在は巨岩の真下に駐車場があり、道なりに進むとすぐに巨石の場所へ出るわけですが

昔はこの伊賦夜坂しか道が無かったと考えれば辻褄が合わなくもない。

因みにこの道を進むと塞の神が祀られおり、

更に進むと道が分岐し、片側が行き止まり(現在は通行禁止だそう)、片側は住宅地へ出るそうな。

 

こちら、悪寒に見舞われた前回の記事。

以上、黄泉比良坂でした。

 

続いて、一路お隣の鳥取県まで。

日本一危険な国宝こと三徳山三佛寺投入堂。

 

ですが、さすがに体力的に厳しいだろう大御所様と高所恐怖症が二名居るので登りませんw

ビューポイントから眺めるだけ。

…いや、どれ?

 

全ッ然わからんので大体の見当で撮ったらしっかり入ってましたw

あれに見えるが日本一危険な国宝・投入堂。

木が生い茂り過ぎてて肉眼じゃほとんどわからん!!

 

望遠鏡から

ダメ元でやってみたけど意外と撮れるもんですねw

しかし…

これは来る季節間違えたな完全に。

そりゃ、草木がボーボーの6月末じゃこうもなるか。

一ヶ月前だったらもう少しはマシだったと思うのですよ。

因みに秋に来ると葉が散ってしっかりと見えるそうです。

 

以上、三徳山三佛寺投入堂でした。

 

道中の大山

昼飯の為に大山町までやってきたが…

なんと肝心のお店が閉まっているではありませんかッ!!

定休日調べてきたのに臨時休業だったのだろうか…

 

仕方ないので近場に見つけたお店で予定外の昼食。

まず、辛い物苦手な雷神様が間違って塩焼そば(辛口)セットを注文するw

で、ワタクシ藤原がソース焼きそば(辛くない)セットを頼んでいたので交換。

で、セットメニューが凄まじいボリュームでして、

ハーフサイズが二つ来るのかと思いきや、まさかの一人前が二つ来たという。

さすがに多すぎて食べられぬという人達も居るわけですが、

今回の旅には不傳流が誇る最強の大食漢の片泰王が居るわけですよ。

食べられない分は片泰王へと捧げられ、いつも腹八分目の片泰王も満足だった様です。

ワタクシ藤原は完食しましたがさすがにコイツは満腹じゃあ。

 

店を出ると良い感じに対岸が見える。

美保湾とその先に見えるのが島根半島の最東端。

しかし、島根半島と弓ヶ浜半島って凄い形だと思う。

 

続いて山陰歴史館。

昭和五年建立の旧米子市庁舎で、建物自体も市指定有形文化財に登録されています。

前回は米子城だけ見て、こちらは見てなかったんですよね。

 

左が慶長六年(1601年)頃の四重櫓(旧天守)創建当時のものと伝わる鯱

左が嘉永五年(1852年)に行われた四重櫓の解体修理の際に試作された新鯱。

因みに一般的には翌年の嘉永六年(1853年)の黒船来航をもって幕末の始まりとされる。

解体修理の方が先ではあるけど、たぶん数年はかかったと思うんですよ。

凄い時期に修理始めてしまったもんだなぁ…

 

1/50スケール米子城天守と四重櫓(旧天守)

 

そしてこれが目玉の…

吉川元春奉納伝桃形兜

鉢の形状が桃の果実を模したという変わり兜で、その名の由来。

宗形神社に奉納されていたものですが、平成29年に米子市へ寄贈されたそうです。

 

世間一般では毛利元就や小早川隆景が人気ですけど、自分的に可もなく不可もなく。

というか謀略イメージが付きまとい、どちらかというと負のイメージが…

しかし、吉川元春は毛利一族でもかなり異質な生粋の武人肌の猛将で、結構好きなんですよね。

 

米子城にあった潮止め松の一部ですが、枯死してしまったそうな。

見ての通りもの凄い巨木です。

 

米子城跡から出土した瓦

揚羽蝶紋なので池田時代。

 

こちらも城跡からの出土品

 

 

米子城主・荒尾成裕の詠んだ句

荒尾家は代々鳥取藩の家老を務め、

米子城を任せられ自分手政治という自治を許された家。

鳥取藩は因幡国と伯耆国を有する大藩のため、

鳥取城(因幡)米子城(伯耆)の二城持ちが許される。

 

竹島(鬱陵島)から持ち帰ってチョウザメの複製模型

この竹島とは現在の鬱陵島(韓国領)のことで、現在の竹島(島根県)とは別の島。

米子の民が幕府に許可を得て竹島へ渡って様々な品を持ち帰っていたそうですが、

後に鬱陵島は李氏朝鮮が自国領を主張し、幕府はそれを承諾。

因みに現在の竹島(島根県)は当時は松島と呼ばれ、鬱陵島よりも南東に位置している為、

幕府と李朝の間で松島を日本領、鬱陵島を朝鮮領ということで双方納得していたと思われる。

独島(現・竹島)は数百年前から韓国人が住んでいて韓国固有の領土ニダとか戯けたことぬかしてるけど

その数百年前のアンタらの先祖が自国領として認めてないわけなんだがなぁw

 

弘化四年(1842年)の米子城絵図

 

中村氏年表

中村家は関ヶ原合戦では東軍へ付く事を決めるも合戦直前に一氏が死去。

嫡子の一忠がまだ幼く、一氏は家康に一忠の事を頼み没したとか。

関ヶ原合戦後、家康は一忠を伯耆一国17万5000石米子城主に任じ、

横田内膳正村詮を後見役および執政家老として派遣。

 

中村一忠の系譜と横田内膳の肖像画

村詮は一忠のために米子城を完成(吉川広家による改修の途中だった)させ、新たに四重天守を建造。

領国の検地、城下町の整備、米子十八町(職業・集落別の居住地)を構築。

加茂川を米子城の外堀に引き入れ、更には運河として利用し物資の大量輸送を可能にした等。

大変素晴らしい政治手腕を発揮しますが…

これを妬んだ一忠側近の安井清一郎・天野宗杷らが当時14歳の一忠へ甘言を弄する。

一忠は惑わされ、慶長八年(1603年)村詮は浄明院との慶事の際に殺害されてしまいます。

 

これに憤激した村詮嫡子の主馬助をはじめ、客分であった柳生五郎右衛門宗章(宗矩の兄)や

村詮恩顧の者たち200余名は飯山に立て籠り横田騒動が勃発。

これを受けて中村方は一忠の名で隣国(出雲国富田)の堀尾吉晴へ救援を要請。

それまでは目立った攻撃はしなかったというからこれまた汚い。

堀尾の援軍の到着をもって総攻撃を仕掛けるが、柳生五郎右衛門らの奮戦により

中村方は甚大な被害を受け、堀尾方も数多の死傷者を出したとか。

しかし、やはり多勢に無勢か五郎右衛門は討死、敗北を悟った横田主馬助は自刃。

騒動は鎮圧されてしまいます。

中村一忠は反乱に加担した者に対して徹底粛清を考えていたそうですが、

堀尾吉晴は首謀者の死を以て内乱は終結とし、横田方残党の降伏許可及び助命を執り成したそうです。

 

客分であった五郎右衛門は開戦前に戦場から退去するよう促されたそうですが、横田家への恩義があるとして参戦。

吹雪の中、数振りの刀を差して敵兵十八人を切り倒すも、最期は全ての刀が折れて壮絶な戦死を遂げたとか。

陰謀渦巻く弟・宗矩とは違い、義理堅い人格者だったそうです。

父・石舟斎が家督を譲ろうとするも、自分は修行中の身であるとして辞退したという説もある。

 

更に興味深いエピソードがあり、

中村方には滝川三九郎一積(滝川一益の孫)が参戦しており、

一説によるとこの三九郎は五郎右衛門から剣の手ほどきを受けていたと言われる。

幸か不幸か戦場で五郎右衛門と対峙。

しかし、やはり師に敵わず三九郎は負傷。

これも五郎右衛門の優しさで命は取らず戦線離脱させたのではないでしょうか。

 

騒動後、自らが派遣した横田村詮殺害への家康の怒りは相当なものだった様で、

首謀者の安井・天野の行いは幕府への反逆と見なし、申し開きも聞かず即刻切腹。

一忠は品川宿止めの謹慎に留まりお咎めなしとされた。

 

慶長十四年(1609年)一忠は二十歳で急逝。

通説では病死ですが、やはり暗殺説もあるそうです。

中村家は改易となり、大名家としては断絶するも

一忠の側室が一清を生み、後に因幡鳥取藩へ仕えて中村家は明治まで続いたとか。

 

中村家改易後、6万石で加藤貞泰が入封。

加藤清正とも加藤嘉明とも血縁関係はない別の加藤。

父・光泰は美濃斎藤氏に仕えており、稲葉山城の戦いの後を経て秀吉の家臣に加わっている。

元和三年(1617年)貞泰は伊予大洲藩に6万石で移封となり、米子藩は廃藩。

 

享保五年(1720年)の原資料をもとに復元された縄張り図。

 

城の縄張り図(中央)と城下町の図(左)

 

こちらは尾高城の展示

慶長六年(1601年) 中村一忠が一時的に尾高城に入っていたが、

米子城の完成をもって廃城となっています。

土塁による中世城郭ですが、

本丸と二の丸に石垣が使用されていた跡が見つかったそうです。

毛利時代に近世の改修を受けているのかも。

 

城跡からの出土品

左から方形館跡、越ノ前郭、天神丸郭、山下地区の出土品。

 

南大郭からの出土品

 

本丸からの出土品

 

御幸行列の人形

 

タイムスリップして古代へ。

こちらは出土品を補修した土器

 

博労町遺跡からの出土品

 

石州府古墳群からの出土品

 

出土した古墳時代の装飾具

 

須恵器と土師器

 

弥生土器(左)と縄文土器(右)

 

弥生時代の木製鍬

 

弥生時代中期の木製琴の部材(左)と磨製石剣(右)

琴ってこの時代から既に存在してたのか…

因みに磨製石剣は集落間での本格的な武力衝突が始まった時期に登場したとされ、

石剣の切先が刺さった人骨が見つかったことから実際に武器として使用していたことが判明したとか。

 

弥生時代の石斧、石鑿、石包丁

 

縄文時代の骨角器

 

縄文時代の石皿、すり石、打製石器、石斧、石鍬、石鏃、石匙

 

一気に近代へ時代は進む。

「鉄道の町 山陰の歴史」

旧米子駅の鬼瓦と国鉄照明用ランプ

 

ワンショベル、油差し、点検ハンマー、D51 1号ナンバープレート

 

D51 657号ナンバープレート

 

快速わかとりライナーのヘッドマーク

 

特急まつかぜ号のヘッドマーク

 

特急おき号のヘッドマーク

 

快速しまねライナーのヘッドマーク

 

乗車表示板と行先表示板

 

御来屋駅の段ボールクラフト

JR山陰線最古の駅舎だそうですよ。

 

修学旅行専用表示板と列車種別版

 

行先表示板


米子市出身の画家、故・石田整昭氏の油絵「或る駅の構内」

 

「囲炉裏の部屋」

 

あ、鏡に思いっ切り自分写ってるw

 

 

囲炉裏、蓑、笠、千歯、石臼、洗濯板、桶など…

所狭しと並んでいますw

 

 

 

 

これはデカくて置き場ばなく廊下に出されているんだろかw

てっぽう風呂という風呂だそうです。

 

「懐かしの教室」

 

尋常小学校の教室が再現されています。

 

古いオルガン

 

教卓

 

黒板

 

デカイそろばん

 

こちらの土器は本物ではなく学習用の模造品です。

 

大正7年頃の教科書だそうです。

 

学用品など

よく見ると一番下に棍棒みたいなバットや鉄アレイの様なものがある。

 

当時の歴史教育用の郷土資料

 

「昔の道具」

昭和の家電やアナログレコード

 

 

菓子木型

これ、たい焼きではw

 

米子市役所の棟札と設計図

 

蓄音機

 

鳥取県西部(弓ヶ浜半島周辺)の伝統的工芸品「弓浜絣」

ここにも思いっ切り写っているw

 

米子市、境港市周辺が産地だそうです。

 

古い織機も展示されている。

 

こちらは古い水車の復元でしょうか。

 

弓浜絣の材

 

淀江傘

大正時代には米子の一大産業だったそうですよ。

 

池田家墓所ののぼりが立っているが、米子市ではなく鳥取市であるw

 

池田家も姫路藩時代は一族の総石高約100万石の超大国でしたが

色々あって64万石まで減少するが、それでも十分すぎる大国。

鳥取藩だけでも32万5000石の二国持ち大名というんだから東照大権現様の娘を娶った家系は強い。

 

次回は米子城へ。

続く