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出品中!

10/11(火)~10/13(木)東京ビックサイトにて
ファッションアイテムEXPOに弊社商品「クレオパトラの目ヂカラ」
香るマスカラ&アイライナーペンシルを出品中!$tongaさんのブログ
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応援しよう

元CCガールズ 原田徳子さんとコンタクトした。
昨年CDリリースして活動再開。
応援しようじゃないか。
かつて、ストリートシンガー「あーすかちゃん」を応援した日々が蘇る・・・
http://haradanoriko.com/

池袋バイトデビュー

20歳
マコちんは、池袋のショーキャバでウェイターとして働くことにした。
大鶴義丹が、辻仁成が、「すばる文学賞」を受賞した頃、
いわゆる俳優や歌手が「マルチに」活動、キャリアチェンジした頃、
マコちんは、文学青年から現実世界を直視した。
「金」「女」「出会い」「社会経験」そして「グレーな世界」
単純な選択だった。ただ、まだ世間では「夜の仕事」はタブー視されていて
「わけあり嬢」にこき使われている「ウェイターちゃん」に変身して、
浸ることを決めた。エリート諸君を将来のマコちんが笑っていた、そう思うことにした。
「ドロップアウトじゃない、スピンアウトするんだ、その勇気がある俺様はしびれるね!」
面接日、当時バイト探しはフロムA フロアレディの記事欄の端に「ウェイター・幹部候補募集」の文字。
特に店名を選ぶでもなく、電話でアポを取り付け向かったお店だった。
面接してくれたやざわさん(仮名)、その後のリスペクトする方だった。
ドレッドヘアーを切さっぱり切り、イギリスエリート学生に憧れ金髪前盛り短髪にして行った。
「なめられないように」と、白のワイシャツの襟を立て、前胸を開き小麦色の胸元にはインドで購入した金のネックレス、薄紫のスラックスの出で立ち・・・精一杯の背伸びだった。
簡単な面接の後、じゃっ明日からお願いしますっと握手(後に分かったが、そのお店のグループ会社のコミュニケーションは握手だった)。
帰り際、「その髪、黒に染めてきてくださいね」
帰り際、煙草を吹かしながら思った、「ようやく、世界に入るか」
バイト入店のことは思い出せない、緊張か余裕がなかったのか・・・
目の前の作業に一心で、嬢の名前と顔、お客様の顔と名前、お酒の名前、専門用語・・・
早く認められたくて、自信を持ちたくてがむしゃらに働いた。
敢えて、社員さんより早く出勤し遅く退店する日々。
入店して1週間が過ぎた頃、月末の千秋楽(ショーキャバの月末日)打ち上げで、社長に聞かれた。
「君は大学卒業したら何になりたいの?」
「エンターテイメント業界で社長になります」・・・たしかにそう答えたことを覚えている、今でも。
ウェイター達で後片付けしゴミ出しで外に出ると、外は白寒くこれから仕事に向かうサラリーマンが足早に行き交っていた。
一方で仕事をあがり蝶ネクタイを外しながら帰路につく自分は「ちょっと居心地の良さ」を覚えた。
ドラマの中の、東京の真ん中の、水商売の世界で働いている俺様・・・イケテルよ!
帰路に立ち寄るコンビニでは、
サヨナラ by GAO が流れていた。
http://youtu.be/e45yonxddBA
家に帰ると、当時好んだ赤ラークをくゆらせ、
シャワーでクラッシュして酒まみれの身体を洗い流し、
支度して大学へ向かう、そんな日々だった。
アパートは鍵をかけずに開放していた。
たまり場にしていたのだ。
池袋バイトに明け暮れだした頃、付き合っていた女子大生から告げられた。
「実家(大泉学園前)に来て父に会って欲しい」と、すれ違いの日々を憂う面持ちで・・・。

大山のアパート

マコちん19、20歳
上京して板橋大山にアパート暮らしを始めた。
遊びに飽きてからは、バイトと大学、直助の住む江古田以外は家で過ごした。
当時2日に1回は通う日サロも、西日が射す部屋で事足りていた。
酒は飲まなかったので、時間があるときは読書に耽った。
小説、ノンフィクション、経済書・・・ジャンルは問わない。
当時流行った写真付きエッセイも、「銀色夏生」
マコちんは、村上龍 派だった。当時新進気鋭の作家だった。
対峙するのは、村上春樹。清らかでハイソな感じが毛嫌いさせた。
村上龍の泥臭く、エロスティクで、切り刻むような鋭さを好んだ。
北方謙三、そして寺山修司・・・。
映画もよく見た。合コンで知り合った娘や伝言ダイヤルで待ち合わせた娘たちと。
「ダンス・ウィズ・ウルブズ」「ボディーガード」
京都での空白の1年を埋めるためビデオも観た。
「今を生きる」ロビンウィリアムズ扮する先生とエリート学生のヒューマンドラマ。
人生で出会った映画の中でも様々な意味で”意味がある”映画。
原作者ソールベロー(アメリカ人:ノーベル文学賞)の著書を古本屋で探しまわった。
「seize tha day」邦訳:その日をつかめ
衝撃を受けたのをはっきりと覚えている。
マコちんは触発されて、当時多感な感性を書に記した。
決して書くという行為が嫌いでなかった。むしろ、表現手段として、コミュニケーション手段として、
自身を満たすに最たる行為だった。
マコちん、とある文学新人賞で「佳作」を受賞してしまった。
勘違いの始まりだった。よくある、田舎の小さなイベントですかしたバンドが賞とって、
「メジャーになってやる」と上京して万年アルバイト生活・・・
マコちんも、右にならへで勘違いはした、だがそれは、「こんなもんなんだ」という、焦燥した、けだるい感覚だった。目指す仮想敵国を見失った感覚、「佳作」でしかないのに、さらに高見を目指すのではなく、停止したのだ。その後の人生においても、マコちんの「分かったふり」「詰めの甘さ」は癖となった。
親孝行にと受賞は伝えた。あまり話さない父が喜んでいた(らしい)。
掲載された紙面を送ったかは定かでない。
コンビニにおいてある紙面を眺めて密かにマコちんはほくそ笑んだ。
当時店内に流れていた曲に合わせて・・・何か始めなきゃ・・・
Start by ジュンスカイウォーカーズ
http://youtu.be/XIJgd-HEQ50

収穫の秋

10/08(土)

東京は晴れ
築地では8(土)9(日)秋祭り
震災復興支援を兼ねて、例年以上のにぎわいだそうだ。$tongaさんのブログ
知人の場外海苔屋さんに挨拶
今回の東北からの誘致も彼が場外組合を率いて実現。
フードリングなる¥300の手飾りを購入すると、通行証の代わりになる。
見せると、屋台でビールや焼きさんまなど格安だ。
貸し七輪もあり、築地で食材を買いBBQができる。$tongaさんのブログ
なんとこの松茸、場外のおばちゃんと値切り交渉の末2箱で¥1,000なり。
ただいま、新宿伊勢丹B1野菜コーナーで特設販売されている石川県能登島高さんとこの野菜と一緒に料理するかな。$tongaさんのブログ
最近、ブログテーマ「自伝」を追加した。
友人と過ごした過去を多少デフォルメ?して自伝風小説を書き競っている。
同じ時代、同じシーンを二人がどう感じていたか?どう表現するか?
見比べたまえ。

大学生活

19.20歳
大学に行けば、それなりに遊ぶ友達はいた。
ただ、違和感を感じていた。自分が馴染みきれない、馴染みたくない感じ。
バンカラ、反骨精神を求めていたマコちんにとって、当時の早稲田は”エリート”くん&チャンばかりだった。受験競争が一番厳しかった頃だったので、おぼっちゃま=慶応ではなく、早稲田がぬるま湯と化していた。
あきらかに”浮いていた”。 同化することを拒み恐れていた。
勉強はした。バイト上がりに授業は出た。
マコちんは、得意の嗅覚で様々なことに、場所に顔を出した。
「社会勉強」の名の下に、イベントサークル、合コン、そして商売。
それなりに女性と戯れもした。
ただ、同世代の誰もが通る感情、そう、「満たされない」。
マコちんの思考回路は、「異質」を求めた。
人が右向けば左へ、損して得せず損する、Give Give Take、
群れることを嫌った。
「一匹狼、いなかの大将の根性みてろ」

マルクス経済学、近代経済学、マーケティング、経営学、心理学・・・
机のお話では収まらず、インターネットがなかった時代、
金投資を始めた。バイト資金で定額積み立てをした。
先物取り引きも始めた。

当時、流行っていたドラマ「高校教師」
巷では、女子高生がトレンドだった。
女性遊びに飽きていた頃、
そう、松や深夜バイトで知り合った池袋キャバ嬢と別れてから付き合いはやめていた。
北海道出身の看護学生でキャバ嬢だった。
いつも早朝に当時流行のボディコンで酔っぱらい牛丼をかいにくる女性。
当然のように家に来るようになり、そして消えた。
「どうしても10万円必要なの」と、マコちんにはさよならを意味する「禁句」を発して、想定した結末通りに ゆくえをくらました。追ったりなどしなかった。
それ以来ぶりに、高校生とつきあう機会があった。
トレンド女子高生とつきあうを謳歌している自分が嬉しかったのだろう。
友達同士でシェアした。すぐに飽きた。お互いに。

インド帰国後、ストイックなマコちんは自傷行為に走る。
摂食障害、不眠不休のバイト、過度なダイエット、削ぎ落ちていく肉体に恍惚とした。
定まらない目標や目的、「生まれてごめん」
日焼けサロン通いで瞑想していた。

「環境かえよう」
池袋のエンターテイメントショークラブ、大箱のキャバクラでボーイになった。
そしてその後、出会ってしまった。

バイトデビュー

1992年夏
大学に入学して都会人になった。閉塞感から開放感になるのが理想だったが、京都での「遅れた時間」を取り返し、追いつけ追い越せという焦りの気持ちがあり、マコちんは何をしても満足し得ないほど貪欲で、余裕がなかった。バブルの名残が残る街では、大学生がトレンドを作っていた。大学では、方程式の数字に習い、遊び人サークルに入るが、すぐに離れた。何のことはない、合宿と称して50名ほどの男女が熱海のペンションで乱交パーティの毎日。こんな連中が「早稲田」の名の下に、いづれは社会をうごかすのか?なんのことはない、新入生ながら気づけばイニシアチブをとり、シモベたちを従えていた。つまらない、実につまらない。マコちんは、読書を好んだ。書を通じて疑似体験することで、知識と人生の選択肢を引き出しに溜め込んだ。

親から仕送りを頑に拒んでいたマコちんは、学費と生活費のためにバイトを始めた。
当時、最年少で文学界新人賞をとられた「川べりの道」鷺沢 萌(さぎさわめぐむ 本名:松尾めぐみ)さんに会いにも行った。小説の内容に対する感想も伝えたが、書き方を学んだ。その後、彼女は35歳の生涯を自ら閉じた。
周りの大学生は家庭教師をしていたが、マコちんは社会と接点が持ちたく、
当時住んでいた東武東上線大山駅前の牛丼や松屋の深夜でバイトを始めた。
当時の時給1,200円 ただシフトいっぱい働いた。すぐに仕事を覚え、模範社員のように働いた。月25万円の収入を得た。家賃、学費にあてた。
年相応に、おしゃれにも浪費した。大山ハッピーロード商店街を散策して、
当時流行のジージャン、紺ブレ、上げ底シューズ・・・

バイトを上がり、直助の所によく通った。
やはり同郷の友人は居心地もよく、虚勢を張らず休めたのだ。
直助は江古田に引っ越していた。
大山から川越街道を走り、環七を自転車で抜ける。
バイト上がりは特盛牛丼をしこたま差し入れた。
大学に行くことも少なくなり、
二人で江古田駅前で、わずかな軍資金で「ハネパチ」で小銭を稼いだ。
お金に窮していた訳ではない。時間を持て余し、悶々としていたのだろう。
特に決めた訳ではないが、どちらかが勝った日は近くのラーメン屋でラーメンをすするのがルーチンになった。
直助のアパートでは、敢えて薄暗い照明の中、当時は”トレンディ”なロフトで、
マコちんは上で本を読み、直助は当時マイブームだったであろう、
没頭できる術であったであろうギターをひたすら弾いた。
♪こころなしか さみしい I LOVE YOUーby デランジェ
♪シェリー、いつになれば 俺は這い上がれるだろうーby 尾崎豊
直助は尾崎に傾倒していた、よくセッションして謳い、ビデオを観た。
尾崎がなくなり、直助は尾崎のそばに、護国寺に向かっていた。
当時は、あてもなく時間を浪費していた。それはネガティブではなく、
なぜなら、同郷の仲間が直助のアジトに集まり、決して東京での寂しさの傷をなめあう訳ではなく、むしろ、トムソーヤしかりみんなで共感しあって刺激しあって成長しあっていた。
深夜、高校で生徒会長をしていた川ごえが車を持ってきて、愉快な仲間たちとドライブ!
行き先など決めていない、誰かが言った、小田原城観てくるぞ!
真夜中のライトアップもされていない小田原城、修学旅行もそうだが目的地に行くことが目的ではない、その道程で気の合う仲間たちと時間をシェアしあうことが目的なのだ。日が昇り始めた帰りすがら、熱海だったかの温泉に入ったかは定かでない。

そうした同郷の仲間との東京生活の顔、松屋バイト生活の顔、大学生の顔、
”収まる””安定する”ことを嫌うマコちんは、変化を求めていた。
そして、インドへ渡る。

帰国後、当時は見かけないドレッドヘアにした。
なんてことはない、TVで観たダンスユニットZOOのメンバーのヘアスタイルに目が行き、翌日、7時間かけてスタイリッシュな細巻きドレットにした。
当時は、満員電車に乗ってもマコちんの周囲半径1mは空洞だった。
特異に見られ、扱われることにご機嫌だった。
そして、あの出会いが訪れた。

再会

1992年3月
慶応だったか青山学院だったか定かではない。
マコちんは、合格した夜間学部入学金納入のため、京都から長距離トラックを乗り継いで東京の地、関越を降りてたった。
右も左も分からない。
ただ、持ち前の嗅覚と感が導いてくれた。
瞬間は覚えていない・・・。
一年越しに高校同級生の「直助」に再会した。
おそらく、西武池袋線大泉学園駅前だろう。
直助はその地に待っていた。
「おう」「ひさしぶりやな」「なんしとったん」「まあ、つもる話もあるさかい・・・」
おそらくそんな再会の会話で直助のマンションへの路を歩んだのだ。
再会の道程は覚えていない。
つまりは「あたりない」会話だったのだろう。
噂や現在を話すでも無く、それぞれがそれぞれの「かっこいい」自分を話していたのだろう。
「お前の母ちゃんから電話あって、早稲田受かったって泣いとったぞ」
京都を離れる前、母には直助の所に止まらせともらうことを伝えていた。
携帯電話など無い時代、実家に届いた朗報をバカ息子にいち早く伝えたいという母心。
「ほんなん?」
おそらくそんな受け答えだったろう。内心は万歳!その頃から無表情を演じる術を体得していたはず。

翌日、小雨降る中、直助にナビゲートされ西武新宿線に乗り池袋、新宿、高田馬場へ向かう。
着替えも持たず上京したため、直助に服を借りる。
お上りさんスタイルのマコちんは、まぶしく思えていた。
たった一年、先に上京して大学生を謳歌している直助、
当時、直助がすんでいたマンション、今でこそマンションとアパートの言葉の違いは分かる。
直助はマンションに住んでいた。たった一足の靴下を、備え付けのドラム式洗濯乾燥機に放り込む・・・「いいな」「かっこいいぜぇ」とは言えなかった。自分をチープに思われたくなかったのだ。
当時流行っていた紺ブレ、ブカブカスーツ。ジャケットとラメったYシャツを借りていざ合格発表へ!

すでに合格は分かってはいたが、自分を盛り上げる、「予備校ブギ」のシーンのように・・・
そこにあった、受験番号。数字は覚えていない、確認したのだ。
マコちんははしゃぎなどしなかった、何も記憶にない、ただ受け入れた「東京かぁ」

東京生活を夢見ていた。
ドラマ「東京ラブストーリー」に憧れていた。
自分を織田裕二演じる永尾完治ではなく、江口洋介演じる三上健一に・・・。
東京には赤名リカが、トレンディな生活があるのだと信じていた。
そうした生活が「ふつー」なのだと信じてやまなかった。
加点ではなく減点志向、「ださく見られないために」
「そうなるために」ではなかった。バブルの遺産 皆が努力や汗と涙を観ようとせず、
背伸びしていた時代だったのか。

赤名りかを求めて、直助と渋谷センター街へ。
ナンパした、正確には、ナンパを試みた。
虚勢を張って、背伸びして、渋谷チーマーに実は怯えながら・・・。
玉砕、ひっかかるリカはいなかった。
マコちんも直助も実は、ナンパ成功など求めていない。
「渋谷でナンパしている俺たち」という事実に陶酔、満足していたのだ。
夜は続く。
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奮起

199×年冬
京都での「愉快などん底生活」も肌寒くなっていた。
本場の極道ごっこも飽きていた。
マコちんは京都駅近くの代々木ゼミナールにいた。
高3の公開模試で全国10位をとっていたため、特待生という称号で
授業料免除になっていた。
昼は勉強、夜はクスリ売りとテキ屋で稼ぎ、朝までまた勉強の日々。
京都の、朝方の寒空が切れるほどに肌寒く心地よく居心地が良かった。
切り刻まれるようで、罰を受けているようで心地よかった。
すでに自傷行為の癖は始まっていたのか・・・。

出会いが無かった訳ではない。
代ゼミで友達になった北海道出身の白鳥君
24歳でロックが好きで、放浪しながら大学受験を目指していた。
彼の薦めもあり本をたくさん読んだ。
太宰治を呼んで金閣寺に行く
西田幾太郎を呼んで哲学の道を歩く
赤軍、大学闘争に憧れ、同志社大学のアジトを探す

生活にテレビは無かった ラジオも無かった
真偽は定かでない人の立ち話と
あさって読むきのうの新聞だけが情報源だった。
人は夢想家。
限られた情報で創造を膨らます。
「新聞に載るようなことし・た・い」
ようやく受験シーズンになり、自信もつくほど勉強した頃
早朝から電話が鳴りっぱなし
「いくらなん?」「どこのホテル?」???
意味が分からず、数十件目の相手に問いただす。
「どちらにおかけですか?」
当時流行のダイヤルQ2 ピンクチラシに大学受験の連絡先のために取り付けた固定電話番号がのせられていたのだ。
0990ではなく075で。後に分かったが、突然様変わりして付き合いの悪くなった自分に対して反感を持つ「仲間」だった。
当時のマコちんにはショックだった、裏切られたことではなく、そうさせた自分にいらだっていた。
ごめんなさい。
夜が明けぬ京都泉涌寺付近で長距離トラックの兄ちゃんにヒッチハイクをお願いして東京へ。
さらば京都。
寝たふりする車中で、目をとして封印した。つもりだった。
「もう、自分を痛めつけることはやめよう」「再スタートする」
春がくると新生活のリズム、若さ故のリスタートできる特権か。
テープから流れる曲を聴きながら
♪Charlene - I've Never Been To Me シャーリーン『愛はかげろうのように』

京都

199×年4月
マコちんは京都駅にいる。
大学受験に失敗して、
閉塞感はある反面、開放感に満たされてもいた。
レールから外れたのだという、若さ故の感受性。
高校3年の夏
地元のの砂浜で出会った京都女子大のお姉さん
携帯電話など無いその時代、文通を繰り返していた。
レールから外れて迷いなど無く、
彼女の近くにいたくて、京都にいた。
極端さ、心頭滅却がマコちんのイズムだった。
レルーに外れて、落ちこぼれた自分を再起するには、
その当時の自分を見せたくない人にあえて観てもらうことで
「なにか」を感じて再起するきっかけ、礎にしたかったのだ。
「反骨心」
あてもなく、段ボールで生活していた。
テキ屋のお兄ちゃんたちと仲良くなり、
喧嘩や女、極道のあじとにも出入りしていた。
周りには誰も知り合いがいない・・・。
田舎者が上京してイメチェンしたのだ(当時は大学デビューとか社会人デビューと言っていた)
反骨心 そう、とことん悪になってやろう。

そして方程式通り、クスリに溺れた。
射たれたのではなく、自ら進んで注射の針をさしたのだ。
統帥する意識の中、「変化だ変化だ!おれっ、どん底見てあとは這い上がるんだ!」
風の噂で、「マコちん、死んだらしいよ」と言われていたそうだ。
たった数ヶ月の間。
ただ、その数ヶ月で、社会主義的学生時代=横並びで決まったメンツと授業受けて、
受験勉強していい大学入って、いい会社入って、シアワセな家族に囲まれる・・・
日本人総中流階級の時代。
たった数ヶ月間、かつてのソルジャーたちは大学でドラマの世界を謳歌している・・・
おれは、おれは、レールから落ちたのだ。
消火栓を押したこと、タバコバレて生活指導室で正座させられたこと、
修学旅行で夜ばいしたこと、みんな忘れていくんだ・・・
おれ、レールから落ちたんだ。

薄れいく意識の中に わずかに、いや、糸をたぐり寄せ確かめるように
公衆電話から、都会で大学生活を送るかつての友人たちに片っ端から電話してみる。
そして、落ちぶれた自分を見せつける。
確かめたかったのだ。弱さを見せることで同情してもらい、心配させたかったのだ。
そうすることしか「自分」が存在することを確認する安堵感は得られなかった。

マコちんは、そうして半年間は地をはっていた、自分の意志で段ボール生活を選んだ。
路上から見る風景、空が遠く感じた、歩きすぎる人たち、とりわけ同世代と思われる人たちを
羨望と妬みと反骨心で心の中で語りかけていた、「今に見てろ」
今となって思う。余裕があったからできた、若さという・・・。
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