まったく、たまにはもっと感動するようなことを話題にさせてくれ、、、

 

なんでこんな身近に ツッコミどころが頻出してるのだ!?

 

 

 

 

子供の中学校では 今でも一応『合唱コンクール』は行われているらしい。

 

 

 

 

が、その様子は30年ほど昔の 自分が中学の頃とはあまりにもかけ離れたものになっていた。

 

 

 

 

まず、声が小さい。 というか歌ってない 声を出してない子が多い。

 

 

 

それどころか 本番の合唱中に”髪を梳いてる”女子がいる。

 

 

 

 

一体、社会に何が起こってるのだ!?

 

 

 

 

1年前、殺人ワクチンで運ばれる救急車のサイレンが鳴りっぱなしの頃の不穏さを覚えた。

(今でもだけど)

 

 

 

 

私が中学の頃の合唱コンクールといえば それはもう運動会のリレーよりも 静かながら燃えていて

 

 

勝敗の発表後は 勝っても負けても女子の半分は泣いていて その空気と居場所に困るくらいだった。

 

 

 

 

負けて泣かないのは 反応の違いだけであって 大泣きしている女子と同じくらい 自分も取り組んでいたし 

 

負けてもいい思い出になっているし 『勝ったから価値があるイベント』と思った生徒はいなかったんじゃないかと思う。

 

 

 

 

もちろん、当時の他校の様子は 自分の目で見た訳じゃないので知らない。

 

 

 

 

ウチの中学は音楽の先生(当時30代前半の男性)が 県の指揮者コンテストで優勝したり その人率いる吹奏楽部は全国クラスでしょっちゅう賞を獲っていたので

 

 

たぶん合唱で求められるレベルも その出来栄えも低くはなかったはずだけど

 

 

それと”クラス単位のヤル気”は 全く別物で

どの学校も 並んで発表すれば優劣はあったとしても 温度差は少なかったのではないか?

 

 

 

 

 

問題なのは そして疑問なのは

 

いつからこうなったのか? ということだ。

 

 

 

 

話しを聞いた翌日に ちょうど30代に入り 小さいお子さんが二人見える女性のお客さんにそれを話したところ

(私の一回り年下にあたる)

 

 

 

その方が中学の頃も合唱は超特大イベントで 負けて泣いてる子はいたらしく 

 

あらためて補足されたのは どちらかというと女子の方が熱が入り 男子がそれに促されているといった感じだったが

 

その方の10歳離れた弟さんの合唱が開かれたので見に行ったところ

(私から見て20歳若いことになる)

 

 

自分たちの頃よりも ”男子の勢いが強く感じた”とのことで

Tiktokやカラオケの利用が増えたせいか 人前に出ることに抵抗が少なくなったのか?と感じたという。

 

 

 

 

 

同じく、小さい娘さん2人を持つ 30代半ばのメンズ客に聞くと それなりに練習し盛り上がったけど ”負けて泣く生徒がいるほどではなかった”とのことで

 

 

上の推測とは違い 世代が近くても、地域や学校によって温度差はあるということか。

 

(まあ、”多数の泣く泣かない”は ちょっとの引き金によって起こる”集団ヒステリー”と言えなくもない。 つられている人がいるのは事実だろう)

 

 

 

 

ちなみに、ウチの子供は当時の私とは真逆で 上手くはないが全く恥ずかしがらない性質で 

 

アカペラも歌のテストも声はデカく出すので 合唱の時は周りの声の小ささのために目立ってしまうらしい。

 

 

 

 

隣のクラスの、同じ小学校の女子で 卒業式の時に『もの凄い主張と存在感のある子だな~』と思っていた子が

 

やはり子供から見て『まともにやってんのは~~ちゃんくらいかな』と言う。

 

 

 

どんなにデカい声の子でも 周りにそれなりの音量が出ればかき消されてしまうので 

その子の声が目立つのは その子の声がデカいのではなく 周りが小さいだけと見ていいだろう。

 

 

 

 

 

では、さらにTiktokが浸透し ”歌って踊ることが身近になったであろう”現代の中学生が こういう性質になったことには どういう背景があるのか?

 

 

 

一つ思ったのは 三者面談で学校へ行った時に 隣のクラスの担任がその音楽の先生だったが 

 

若くて明るく喋りやすい女性で、良くも悪くも非常に生徒との距離が近かった。

 

 

 

 

私の高校の音楽の先生は2人いて 一人は定年間近で威厳を漂わせていて

 

もう一人は、今思うと若かったんだろうけど 有無を言わさぬ圧力と一線引いた距離感で ヤンキー気味の生徒も黙らせていたので 

 

苦手であろうとなかろうと 授業で声が出てないということはまずなかった。

 

 

 

 

なので、子供の音楽の先生がナメられていて

恥ずかしがって歌えない、歌わない生徒を窘めることができていないのであれば 

 

今回の話はウチの中学のみの特性ということになる。

 

 

 

 

 

ただ、今の社会全体を見ても分かるように 大衆はひとつの流れが形成されると 多数はそれに乗っかるようになっているので 

 

 

声のデカい側が多ければ自動的に釣られるかもしれないが 

特に、恥ずかしがって声が小さかったり怠惰な方が多いと 

 

それを覆すのは教師の手腕も含め 相当のエネルギーが要る。

 

 

 

 

 

過去に出席した『史上最低の結婚式の余興』はこんな様子だった。

 

 

 

食事の途中で余興のアナウンスが入り 新婦の友人側から祝いの歌を送るということで

 

 

安室奈美恵さんの”結婚式といえば~”の 『CAN YOU CELEBRATE?』が友人女子全員で歌われることになり

ぞろぞろと10名前後が 前で一列に並んだ。

 

 

 

 

誰かが生ピアノを弾くわけでもなく カラオケのイントロが流れる。

 

 

 

端の女子が一本マイクを持っているだけなので 全員ではなく一人ずつ回していくのだろうと思われた。

(もしくはメインボーカルと残りはコーラスなど)

 

 

 

 

それを誰が企画したのか?(新婦側なのか友人側なのか)詳細は不明だけど 

 

なんと! 練習や打ち合わせを全くしていなかったのか 

誰がどの順番で  どれくらいの長さで歌うのかを 誰も全く知らなかったようなのだ!

 

 

 

なんなら、あの様子からは 事前に知らされずにその時になって 急に前に引っ張り出されたといった挙動の子もいた。 

 

 

 

 

前のスクリーンに歌い出しのテロップが映ると マイクを持たされた一人目は 『え!?わたしから!?』みたいな顔でオロオロし 歌わずというか歌えずにいた。 

 

 

 

 

そして、1ページ目の終わりあたりで隣の子にマイクを手渡すと 

 

そこから先は終わりまで全て一人目のコピーだった。

 

 

 

 

あのインスト(演奏のみ)だけが白々しく響く凍り付いた空気に 一気に酔いも醒め 血の気も引いた。

 

 

 

お気楽な出席者の私でさえそうなら 招く側の目にはどう映ったのだろうか?

 

 

(まあ、そもそも全員が曲のメロディを知っているとも限らないし 細かい歌い回しまで歌えなければ全然違う歌に聞こえてしまうし

 

ラジオで流れる 『Aメロ Bメロ サビ』までは知っていても 間奏の後の”Cメロ”まで知ってる人は少なかったりするので 順番によっては地雷を踏んでしまう人はいるだろうけど(笑)

それにしても、『下手で恥をかいてもいいから 招いてくれた友人のために一肌脱ごうという気概の奴はおらんのか!』と怒りを覚えた。

 

この惨劇によって、結婚式の余興で歌をやるなら『遠い関係でも超ウマい奴』『下手でもいいから生演奏』のどちらかだなと思った。

 

ちなみに自分の時は、フルバンドで90’洋ハードロックを演奏し 向こう側の歌の上手い友人にも一曲入ってもらった。)

 

 

 

 

おそらく、もし一人目がノリのいい子で 次にマイクを受け取る子が『この勢いを自分のところで削いではいけない』と思わせる空気を作ることができていたら 

 

 

少なくとも”全く歌わずにスルーする”子が出るようなことはなかったのではないか?

 

 

 

 

逆に、一人目が”ダメ”だったからこそ それより『上手く歌うことで目立つ』ことを遠慮してしまうのが日本人的性質とも考えられるし

 

 

あの中で、”実は上手い”子がいたとしても 『上手くても浮くのは嫌だ』と 実力を封じてしまっていてもおかしくはない。

 

 

 

 

時代背景や地域性など 様々な要因はあるが

もともと人前で引け目なく歌える子の方が圧倒的に少なく

”恥ずかしがり”の人口の方が多い中で

 

 

それでも士気を高める子がいたり 目立たない子も『こんな時くらい頑張ろう』と思ったり

 

昔は当たり前にできてきたことが できなくなってきていている。

 

 

 

 

自分の価値観を押し付けるつもりもないし 興味が全くなかった人もいるだろうけど 自分にはいい思い出があったから。

 

 

 

 

この『顔の見えない社会』になって クラスメートの素顔を知らないことで 連帯感が希薄になり 

 

より他人に対し無関心になった傾向にあると聞く。

 

 

 

 

好きでも嫌いでもない生徒と たったその時だけでも成り立っていた 

バランスを保っていた”団結”というものさえ破壊してしまったのなら

 

 

この社会を継続している教育者  それに甘んじる大人の罪は海より深い。