私は歴史の勉強が嫌いで、苦手だった。その理由はちっとも面白くなかったからだ。でも今考えると、歴史が面白くないのではなく、教える側に歴史を面白く教えようとする気持ちがなかったせいだと感じる。おそらく、その面白くなさというのは、私が子供の頃でも、現在でも大きく変わっていないと思う。

 これは一つには学者の責任であるように思う。学校で習う歴史には、一言で言えば歴史観がない。歴史観とは「歴史を全体的にどう見るかという根本的なものの見方。」(デジタル大辞)ということだけれども、学者・研究者が分かっていないのだろう。

 なぜ分かっていないのかといえば、日本史は日本の宗教や国の政策と繋がっているためのような気がする。つまり、純粋な学問の対象となりにくいのではないだろうか。特に現在のように、歴史に限らず国が学問に口出しして自由な研究を許さない社会になってくると、思想性を帯びやすい歴史という学問は壊滅的な打撃を受けるように思える。

 私が歴史で楽しいと感じたのは、もう大学生にもなって司馬遼太郎のエッセイを読んだときだった。司馬遼太郎には歴史を理解しようと試みている姿勢があった。それはどのようなことかといえば、歴史を単に事実の羅列ととらえるばかりではなく、一つの流れとして、なぜそのように歴史が展開していったかを説明しようとすることになる。

 もちろん司馬遼太郎は歴史学者ではなく小説家であったから、学問的な考証を省略して好きなように脚色できるという自由があった。しかし、私はその姿勢は正しいと感じる。その姿勢を学問である歴史学にも持ち込んで、学問として成立し得る厳密な考証をしながら記述を行っていくべきであるように思う。

 日本には歴史観がゼロかといえば、私の知る限りでは「皇国史観」というものがある。これは「万世一系とする天皇による国家統治を日本の歴史の特色とする考え方。古事記・日本書紀の神話を歴史的事実とする。」(精選版 日本国語大辞典)という、大変に馬鹿馬鹿しいものだ。

 まあ無理もない。大日本帝国憲法(明治憲法)において、いきなり第1条で「大日本帝國ハ萬世一系ノ天皇之ヲ統治ス」と決めてしまったのだから。そして第3条で「天皇ハ神聖ニシテ侵スヘカラス」と駄目押しをしている。日本人というのは昔から嘘つきだったのだろうなあ。嘘つきであると同時に、幼稚で民度が低いともいえる。

 国の建て付けを、そんな子供騙しみたいな幼稚な嘘で固めてしまったら、破綻するに決まっている。そして、実際問題としても、大東亜戦争の敗戦で破綻してしまった。憲法という日本の国の設計図を間違えたのだからそのようなことになる。欠陥住宅が地震で崩壊するようなものだと思えばいい。

 大東亜戦争の敗戦で崩壊してしまった日本だけれども、アメリカに支配されながら復興が行われた。当然皇国史観は否定され、より合理的、科学的な考え方が導入された。おそらく、私の世代は、現在よりもずっと合理的、科学的な教育を受けたのだろうと思う。団塊の世代には浸透しておらず、安倍元総理や岸田総理になると、もう薄れているように思える。

 ただし、アメリカは日本人が身に付けていなかった合理性や科学性を持ち込んだとはいえ、占領政策として自虐史観も持ち込んだ。これがまた、日本史を考える上で一層の混乱をもたらした。なぜなら、自虐史観もまた嘘っぱちだからだ。

 自虐史観は、アメリカが占領政策を行う上で、さらにはその後の日本を実質植民地として飼い殺すために都合のいい史観になる。まあ、敵としては当然のことだろうか。現在そのアメリカの思うがままにホイホイと踊っているのが岸田総理になる。

 話がそれたけれども、ついでに考えてみると、安倍派潰しは当然のことになるのかな。なにしろ安倍派は安倍元総理を含めて基本的に「皇国史観」の人たちだろうから。それに対して、アメリカは日本に自虐史観を押し付けたい。つまり、日本人は悪であると植え付けたい。だから、アメリカのポチである岸田総理は日本国民の虐待を始めたのだろうなあ。なにしろ日本人は悪なのだから、一人前の生活ができると思うなということだね。

 安倍元総理が暗殺されたのは、皇国史観は許さないというアメリカの断固たる姿勢の表れなのだろう。それにしても失礼な話で、 "人の国の元総理を勝手に殺すなよ" と言いたいけどね。とんでもない話だ。

 話を元に戻して、司馬遼太郎も自虐史観に問題を感じた人であったらしい。ただし、結果から見ても、自分の体験からしても、大東亜戦争は評価できるものではないというのが司馬遼太郎の感じ方だった。その一方では、日本を全否定したくはないという気持ちも強くて、大東亜戦争は愚かだったけれども、日本だってもっと遡れば立派な国だったとみなして作品を書いていった。

 つまり、大東亜戦争が敗戦に終わるまでの昭和の日本は評価できないけれども、明治までの日本は優れた国であると言おうとした。そして、盛んに日露戦争までの日本は立派な国であることや、維新の志士などの目覚ましい活躍ぶりを小説に書いた。今ではすっかりアメリカの傀儡放送局になったNHKも、以前は司馬遼太郎がお気に入りだったようで、大河ドラマ等に盛んに取り入れた。

 私は、司馬遼太郎のエッセイが好きだったせいで、明治維新以降の日本というのは何となくそんな国だろうと、つまり、英米に対抗するために、あるいは侵略を防ぐために、薩長土肥の志士たちが天才的な活躍を見せて、日本を救ったのだろうと思っていた。

 しかし、最近になって、それはあくまでフィクションだと思い始めた。考えてみれば、明治維新は、あるいは幕末の志士たちはそんなに格好のいい存在ではないよね。そのように思い始めたのは、最近YouTubeで見られる「西鋭夫」氏に影響されたせいかもしれない。

 西鋭夫氏の話を聞いていると、明治維新は英米の都合によって行われたものであると思えてくる。う〜ん、その方が合理的だなあ。史実にもピッタリ当てはまる。英米は大航海時代の最後として日本に目をつけ、もちろん侵略しようとしてやってきた。

 しかし、実際に来てみると、日本人は一筋縄ではいかない。素直に従わないし、すぐに切れて戦いを挑んでくる。軍事力も無視できないほどには強い。こりゃ通常の植民地としては不適格だと判断したのだろう。そこで、英米の直接の支配下に置くことはやめて、傀儡政権を置いて操る方針に変更した。それが明治政府になるわけ。

 これが英米にとっては大成功で、日本は英米に代わって、清国と戦争を行い、露西亜とも戦争して、そこそこの成果を収めることができた。ちょうど今のウクライナがアメリカの代理戦争をさせられているのと同じと思えばいい。ウクライナは失敗に終わったけれど。

 おそらく、そんなところが、右にも左にも偏らない、つまり、皇国史観でも自虐史観でもない日本史なのだろうと思う。物事は、自分たちの都合や利益で考えるのではなく、素直に合理的に考えなくちゃ。こうやって考えると、幕末の志士たちがなぜ250年以上も続いた江戸幕府に弓を引く気になったのか、無理なく理解できるような気がする。

 しかし、人間というのは変わらないね。明治維新から150年以上経過した現代において、やっぱり英米は同じことをしている。ウクライナに入り込んで、クーデターを行わせて、ロシアと戦わせるなんて、明治維新から日露戦争までの日本とそっくり同じ。ちょっと感動的ですらあるけれど、同時に成長しないものだとも思う。柳の下のドジョウはやっぱりおいしそうなのだろう。

 私の想像はさらに膨らむ。明治政府は西洋文明を積極的に取り入れ、あっという間に日本を欧米並の国に仕立て上げた。これはすごいものだったね。ちょんまげ結って、刀を差していた日本人が、女の人だと和服に日本髪、既婚者はお歯黒をしていた日本人が、ことごとく西洋化した。靴を履き、椅子に座り、電気がつき、鉄道が走り、洋食を食べるようになった。

 あまりの手際良さに驚くのだけれども、国民もよく付いていったものだと感心する。なぜそんなことができたのか不思議だけれど、実は日本人は昔同じことを経験していたというのが私の考え。それは中国との関係において行われた。

 歴史が苦手な私には何の知識もないのだけれど、推古天皇は592年に豊浦宮(奈良県飛鳥村)で即位したといわれていて、以後、794年に平安京(京都)にたどり着くまでの200年間、転々と宮(みや)や都(みやこ)が変わったようだ。そしておそらくそれらの宮や都は、全て中国の模倣だったことだろう。

 つまり、明治維新になって日本は欧米の文化を全てといっていいくらい模倣したけれども、それは今からおよそ1000年以上も前に、中国を相手に行っていたことになる。遣隋使や遣唐使は明治でいえば留学生だろうし、中国から教えを請うために技術者等も招いたに違いない。明治政府がたくさんの外国人を雇ったように。

 私は、聖徳太子は中国人だったろうと勝手に思っている。なぜなら、17条の憲法の有名な第一条に「和をもって貴しとなし 逆らうことなきを宗とせよ」とあるのはいかにも外国人の視点だからだ。

 日本人であれば当事者だから、このように客観的な記述はできにくい。俺に従えとか、悪いのはあいつだとか、そのような表現になるはずだ。第一条はその後以下のような内容になる。

 「人はみな派閥を作り、わきまえのある者は少ない。そのため君主や父親に従わず、近隣の人ともうまくいかない。しかし上の者が和やかで下の者の仲が良ければ、議論で対立しても自然に道理がとおり、何事もうまくいくものだ。」

 まるで、第三者が仲の悪い日本人の仲裁に入っているかのような書き振りに感じられる。また、ことによると聖徳太子は、中国から日本に渡った天皇家を応援しに来たのかもしれない。世界の先進国でもあった隋から日本に使わされた、助っ人ということになる。行政の事細かいところまで指導したのではないだろうか。

 私は、「五箇条の御誓文」の最初もイギリス人が作ったのではないかと感じる。「広く会議を興し、万機公論に決すべし」という文言は、どう考えても日本人の発想ではないと感じるからだ。

 それは今の岸田内閣を見ていても分かる。国民に知られないように閣議でこっそり決定し、都合の悪いことは隠蔽して、いつの間にか国民が不利益を被るようなことを実行に移している。それが日本人なのだと思う。「広く会議を興し、万機公論に決すべし」という文化は現在に至っても日本に根付いていない。

 以上のように、日本という国は元々が文明の遅れた国であって、古くは中国の真似ばかりをし、明治以降は欧米の真似ばかりをしている国であると日本史を理解してみた。もちろんそれが全てだとはいわないけれど、おおまかな理解としてはそれでいいのではないかと一人で頷いている。

 願わくは、真似をするばかりではなく、自分の頭を働かせて人間はどのような生き物であるのか、どうあるべきなのか、日本という国はどのような国で、どのように歩んでいくべきなのか、そのようなことを考えられる国、あるいは国民になってほしいと思う。現在の日本もやはり真似ばかりであり、いいところを真似するのならともかくも、アメリカの巨悪まで真似し始めた。

 アメリカに命令されるままに、日本とはほとんど何の関係もないウクライナに加担して、日本人を貧乏にするほどの援助をすることがいいことなのか悪いことなのか、さらには、現憲法では戦争を放棄しているはずなのに、それを無視して日本の防衛戦争でもないロシア・ウクライナ紛争に、資金や武器の提供をして参戦しているのがいいことなのか悪いことなのか、自分の頭で考え、判断できるような国になってほしいものだと思う。

 

 それにしても、与野党もマスメディアも裏金問題で大騒ぎすることによって、日本政府の憲法違反やワクチン問題等を隠蔽することに協力しているように見える。いつもの手口ではあるけれども、根から腐っているね、この国は。