私の好きな夏目漱石の "草枕" の冒頭は「山路を登りながら、こう考えた。智に働けば角が立つ。情に棹させば流される。意地を通せば窮屈だ。とかくに人の世は住みにくい。」となっている。歯切れのいい文章で音だけでも爽快だ。

 中学生の頃にこの文章に触れて私はなるほどと思ったものだ。人間何かをすれば必ずその反作用が生じる。頭のいい人は理路整然と物事を考えて計画的に実行するけれども、それをすると機械的、冷たい、ロボットのよう、理屈どおりにはならない、頭でっかち、机上の空論などの批判を受ける。

 情に厚い人は、人が喜ぶことを進んで実行するけれども、それをすると、私情を優先している、公平さを欠く、感情で判断している、もっと効率的な方法がある、先の見通しがない、論理性や計画性がない、篭絡されやすいなどと批判される。

 意思の強い人は苦しくても頑張って目標に到達しようとするけれども、それをすると、頑固だ、柔軟性に乏しい、人の言うことを聞こうとしない、視野が狭い、もっと頭を使ってはどうかなどと批判される。

 何をどうしようが、全ての薬やワクチンに副作用があるのと同様に、必ずどこかの誰かからは批判を受ける。それで夏目漱石の草枕のように「とかくに人の世は住みにくい」と言いたくなるわけだね。

 それに対して、明治の人は偉かったのか、夏目漱石が偉かったのか知らないけれど、何もしないという選択肢は発想になかったようで、草枕でも触れられていないように思う。

 しかし、現代の日本、あるいは世界においては、何もしない選択肢が立派に存在するというか、勢力を得るようになった。それが引きこもりになる。何かをするから批判されるのであって、あるいは失敗するのであって、何もしなければ批判も失敗もない。

 実際問題として、今の私は引きこもり生活と似たようなものだけれども、批判されることも、失敗することも、後悔することも、腹の立つことも、現役で働いていた頃と比べるとはるかに少ない。実に気楽なものだ。若い頃に柴田翔の「ノンちゃんの冒険」という小説を読んで思ったことは、早く年金生活になりたいということだったが、念願かなって年金生活になってみると今のところはやっぱりいいものだ。


 私が気楽と感じるのだから、若い人でも社会に出てつらい思いをするよりも引きこもっていた方が快適と考え、実行する人が出てくるのは当然だろう。

 現在、内閣府の調査によると、全国で引きこもりの人数は146万人と推計されるという(平成22年度の調査)。これは人口減少、労働力不足に悩む日本にとっては歯がゆい問題になる。今そこに働ける人材がいるにもかかわらず利用できないのだから。引きこもりが元気に働き出せば、移民など必要としなくなる。

 と、乱暴なことを書いてみたが、さらに乱暴なことを書けば、引きこもりは社会の豊かさを反映している。なぜなら、引きこもって収入のない者を誰かが養っているからだ。大抵は親になるのだろうけれども、食事や住居の面倒を見ている者が存在している。つまり、引きこもりの面倒を見ている者にはそれだけの経済的な余裕がある。

 引きこもりの面倒を見る人がいなくなると、引きこもりは日本からいなくなる。なぜなら、援助なしで生きていくためには家の外に出て何かしらの活動をしなければならず、それをしない場合には飢え死にしてしまうからで、どちらにしても引きこもりは存在しなくなる。(引きこもりの面倒を見るのをやめた方がいいという意味ではないので念のため。)

 社会が豊かになっていくことはとっても大切なことで、今の日本が荒れているのはそれができなくなったことが多分に理由になっていると思うけれど、豊かになれば豊かになったで、それに付随する社会的な問題が出てくるものだ。豊かな社会といえばアメリカになるが、そのアメリカで貧乏人が増えている。とっても興味深い社会現象で、富の偏在、つまり、金持ちはより金持ちになり、貧乏人はより貧乏人になるという事態が生じてきた。

 それについて、経済学者や社会学者はどのような見解なのだろうか。私のような素人が考えると、社会が豊かになればなるほど貧乏人が減るのではないかと思ってしまうけれど、実は違うということが現実に起きている。どうも人間というものは、権力者はますます権力を欲し、金持ちはますます金をほしがるようだ。そしてそのために弱者を利用し、迫害する。アメリカでも、日本でもそれが進行しているように感じる。

 おっと、話がずいぶん外れてしまった。一体何を書くつもりだったのかな。そうそう、岸田政権のていたらくについてだった。表題の「なにもし内閣」は「何もしない」と「内閣」を合体させただけの駄洒落なのでお気になさらぬように。

 それはそうとして、今回の能登半島地震に対する政府の対応、いや岸田総理の態度にはいささか腹立たしさを感じた。言葉では何と言おうともやる気ゼロだからね。そもそも、この地震に対して、政府がどのような姿勢で臨もうとしているのか、どのような方策をとるのか、総理大臣から国民に向けての説明が少なすぎる。

 総理大臣が説明しないのであれば、代わりに誰かがするのかと思えばそれもない。政府はどのような方針の下で、どのような具体的な方策をとるのかについて、能登半島の人に対してばかりではなく、全国民に説明する必要があると思うのだが。

 私は、今回の能登半島地震の被災者に対して、それほど同情する気持ちにはならない。なぜなら同情というのは他人事だけれども、地震の被災は他人事ではない。明日は我が身であり、いつ自分が被災者になってもいいように覚悟を決めておかなければならないと感じながら情報に接するからだ。

 それゆえ、政府は全国民に対して、地震被害の状況や、具体的な対策について詳しく説明する必要がある。日本人なら誰しも対岸の火事であるとは思っていないのだから。志賀原発のことについても同様だ。福島では原子力発電所が爆発して、現在においても多大な被害を与えている最中であり、これに関しても、日本人全員がいつ自分に振りかかってくるか分からない問題として感じている。

 やはり、総理大臣なり、担当大臣なりから、きめ細かな状況説明があるべきだけれども、何もしていないでしょ? あり得ないなあ。結局のところというか、詰まるところというか、日本政府は今回の能登半島地震に対して、災害対策をやる気がないのだろうとしか思えない。小泉進次郎が募金活動をしてところを見せて、 "やってます感" を出せばそれで十分だと思っているのだろう。アホらしい。

 こうやって書いていると、私の岸田政権、岸田総理に対する不信感が一層強まってくる。岸田総理の人格を疑いたくなる。ありゃ一体何なのだろう。そこで、話は最初に戻って、岸田総理は引きこもり同様に何もしたくない人間かもしれないと考えてみる。そう、人間何かをすると必ず批判されるのだけれど、岸田総理はそれが嫌なのではないだろうか。だから、できるだけ何もしないという選択をしたがる。あるいは批判されないことだけをしたがる。

 今回地震対策を早急に懸命にやったところで何かしらの批判は受ける。どうせ批判を受けるのなら、放置しておいても同じというのが岸田総理の腹の内ではないだろうか。「こんなに一所懸命してやっているのに支持率を下げやがって。もう何もしてやらない。」程度のことしか考えられない人間と思っていいだろう。

 何だかビリヤード(玉突き)の玉を連想してしまう。誰かがキューで玉を撞く。すると玉は力と方向次第であちこちにぶつかって跳ね返る。総理大臣なのだから、その仕事としてはキューで玉を撞くことのはずだが、岸田総理は撞かれる玉の役割しかしようとしない。

 アメリカに撞かれ、財界に撞かれ、野党や他の派閥に撞かれ、マスメディアに撞かれ、検察に撞かれ、天災に撞かれと、次々に撞かれまくっている。なぜかといえば、撞かれて動いている限り自分の責任ではないと思えるからだ。「批判なら撞いている奴にしてくれ」と言い逃れられると思っている。下っ端であればそれでいいのだろうが、そして、それが岸田総理の得意とするところなのだろうが、総理大臣はそれでは失格だ。

 総理大臣は批判を避けることが仕事ではない。国民や国のために、批判を受けても適切な道を示して実行することが仕事だ。しかし、そもそもが何もしたくない人間、批判を嫌がる人間が間違って総理大臣になってしまったものだから、現在の不手際がある。そして、岸田総理の最大の欠点は、国民の意向を無視することだ。こと国民の世論に関してだけは無視していいと考えているようだ。

 総理大臣だけがイカレているのであればまだ救いようもあるけれど、現在は母体となる与党自民党が大騒ぎで、政権運営どころではなくなっている。例の政治資金パーティ収入の裏金問題だ。おそらく、与野党を含めたほとんどの国会議員が多かれ少なかれ関係している問題だろう。それゆえ、今の国会議員は能登半島地震など眼中にない。

 それ以上に大きな問題として、新型コロナワクチン被害問題、ロシア・ウクライナ紛争対応問題が背景にあると私は考えている。新型コロナワクチンでは、日本政府が日本人を何十万人も殺してしまった。政府が国民を殺すということがこの日本で起きてしまった。ロシア・ウクライナ紛争では、敗者、しかも正義のない侵略者側に加担した。

 どちらも、取り返しがつかない、回復させようのない大失策になる。会社であれば倒産だろう。もちろん政府はそのことを決して認めようとしない。そんなことを認めてしまえばあっという間に政権交代になってしまうからだ。

 とはいえ、与野党共に自分たちが大東亜戦争に次ぐ大失敗を犯したという自覚は持っている。そんな連中が、落ち着いて真面目に国の運営に取り組めるはずがない。いくら図々しく、ふてぶてしく振る舞っていたところで、政治に集中したり、熱意を持つことができないまま、心ここにあらずで散漫としている。それが現在の政府自民党及び野党、つまりほとんどの国会議員の心中だ。

 一つ提案がある。ここまで取り返しのつかない失敗を重ねてしまったのだから、与野党含めて全議員が辞職してはどうだろうか。各党とも一旦解散した上で党派の組み換えを行い、新たな党を結成して日本の政治を全く新しいものとしてはどうだろう。一からのやり直しだ。

 その結果一番人数の多くなった政党は、その名称を「反省党」とすることをお勧めする。戦後80年近く経ち、その多くの期間を占めた自民党政治は結局のところ大失敗に終わった。もう取り返しはつかない。そのことを肝に銘じて、二度と過ちを繰り返さないための党名は「反省党」がいいと思う。あるいは「改悛党」でもいいかな。