新年早々、震度7の能登半島地震、羽田空港でのJAL機接触炎上事故と、天災と大事故が続いた。しかし、それにも増して大きな厄災は年頭の記者会見で、岸田総理が憲法改正に意欲を示したことだ。「自分の総裁任期中に改正を実現したいとの思いに変わりはなく」「今年は条文案の具体化を進め、党派を超えた議論を加速」などと述べた。

 能登半島地震やJAL機接触炎上事故も憲法改正の道具として使われるかもしれない。あのアホンダラめが。おっと失礼、言葉遣いが悪くなってしまった。

 緊急事態条項の創設、基本的人権の軽視などは、当然のことながら私も大反対だ。それらが何を意味しているかといえば、強権国家、全体主義、専制政治、軍国主義、戦争、共産主義などへの道を作るものになる。政府が思うがままにやりたい放題をできる国になる。

 思い起こしていただきたいのは、2021年に政府が緊急事態宣言を連発したことだ。すでにご承知のとおり、新型コロナは風邪以下の感染症だった。日本に何の危害ももたらさなかった。であるにもかかわらず、緊急事態宣言の連発だった。一方でオリンピックをしながらの緊急事態宣言でもあった。どこが緊急事態なのか誰にも分からず、終始気分だけのものだった。

 つまり緊急事態宣言というものは、何も起きていない平穏な状況下においてさえ、理由をつけていくらでも発出できる。現在不評を買っているのが岸田総理の増税政策であるけれども、増税なども自由自在だ。緊急事態条項が憲法に盛り込まれた際には、「緊急事態に鑑み、消費税は30%とする」と閣議決定するだけでいい。政治家も、財界も笑いが止まらないシステムだ。そんな憲法改正に、本来であれば与党も、野党も、官僚も、国民も賛成するはずがないのだけれども、そこはそれ、これまで散々当ブログで書いてきたように日本人は愚かだ。どうなるか分かったものではない。

 天皇についても、自民党案では現在の "象徴" から "元首" へと格上げされることになっている。緊急事態条項ほどには注目されていないが、これについても、緊急事態条項に匹敵するような恐ろしい改悪になる。

 現在の日本国憲法においては、天皇は「日本国の象徴であり日本国民統合の象徴」と規定されている。ところが自民党案では、「天皇は、日本国の元首であり(以下同じ)」と変えることになっている。これは何を意味するのだろうか。

 ご存知のとおり、現在の象徴としての天皇は実質的な権限を持たない。仮に天皇が「岸田という男はけしからん。捕まえて死刑にせよ。」と言ったところで、それに従う人間は誰一人おらず、「死刑じゃかわいそうだから5年くらい刑務所に入ってもらおう。」ということにもならない。一切の実質的な権限を持たないのが現在の象徴天皇になる。

 その天皇を "元首" と定めることによって何が変わるのだろうか。誰もが感じることは、象徴よりも元首の方が偉そうということだ。それを具体的に言葉で説明すると「元首とは、対外的にその国を代表する地位と権限をもつ者のことであるが、国内的には統治権や行政権をもつ者を元首とよぶ。」(日本大百科全書(ニッポニカ))というあたりが理解しやすい。

 今の政府・自民党は卑怯だから、現行の"象徴" から "元首" に変えたところで、何の変化もないと説明するに違いない。しかし、一旦 "元首" という言葉を使ってしまえば、あとは通常の法律によっていくらでも膨らませることができる。それこそ、緊急事態宣言中に、「天皇は神聖にして侵すべからず」「天皇は元首にして統治権を掌握する」などを、閣議決定して法律化すれば明治憲法下同様に "現人神" を誕生させることも可能になる。元首という言葉を用いることで、言葉自体の意味からそのような運用が可能になる。

 そこまで考えると、次の疑問が生じる。天皇を偉くしてどうしようというのか、誰に何のメリットがあるのかということだ。もちろん政府・自民党などの支配層にとってのメリットが大きい。なぜかといえば、天皇を政府・自民党の傀儡として利用するつもりだからだ。

 例えば極端な話、日本で徴兵制を実施したいと政府・自民党が考えたとする。しかし、いきなりそんなことを言い出しても、当然のことながら誰も納得しない。そこで "元首たる神々しい天皇陛下様" にご登場願う。そして、「朕は日本国に徴兵制が必要だと考えている。」と発言してもらう。元首にはそのような発言をする資格は十分にある。それだけでも世論に影響を与えそうだ。そのような状態が現在の政府・自民党の描く "元首天皇" になる。

 これは、戦前の日本の体制と同じであり、明治維新以来のシステムだったが、大東亜戦争の敗北でアメリカによって断ち切られた。そもそも明治維新というのは、薩長土肥の田舎侍たちが江戸幕府へ反乱を企てたものだった。そして、田舎侍たちがなぜ幕府に勝つことができたかといえば、それはバックに英米が付いたからだった。

 英米の力を借りて(英米に利用されて)江戸幕府に勝利した薩長土肥だったが、しかし、それだけで日本の支配権を握ることには無理があった。英米の力は江戸幕府との戦いの役には立っても、国内政治を行う上での権威とはならなかったからだ。英米を持ち出したところで当時の日本人にはピンとこない。逆に反感を生む。

 そこで明治政府は天皇を利用した。憲法で天皇は神様のように偉い存在であると謳うことによって、明治政府の威光を強めようとした。それは時代と共に強化され、大東亜戦争時には「天皇陛下万歳と言って死ぬ」「天皇陛下のために死ぬ」という日本になってしまった。

 もちろんそれは天皇の個人的な考えや、好みから発生したものではない。当時の日本の政府や軍部などの支配層が、若者を兵隊に仕立てて戦争で戦わせるための洗脳(マインドコントロール)だった。戦争ばかりではない。政治から経済から、日本で行われることの全ては "天皇陛下様の御心" であるとされた。しかし、その実態は天皇の名を語って日本の支配層が、自分たちの都合のいいように国民を統制するものだった。

 これを緩く考えるならば、「発展途上国にはありがちな統治体制であり、そんなに目くじら立てずに許してやれよ」ということになる。しかし、戦前の天皇制には大変な弊害があり、それは今でも日本に悪影響を及ぼしている。簡単に見過ごしていいものではない。どんな悪影響かといえば、私に思いつくのは二つあり、一つは無責任、もう一つが世襲制になる。

 日本は無責任社会だ。しかも、上層部というか支配層がより責任から逃れることができる。日本の上層部は失敗や犯罪をしないのかといえばそんなことはなく、地位の上下にかかわりなく失敗もすれば犯罪も犯す。それでありながら、なぜ支配層は責任を問われないのだろうか。

 その答えは、現人神である天皇がバックについているためということになる。日本の支配層の行っていることは、現人神である天皇の意向なのだから、天皇の命を受けた家来の責任を問うのはおかしいという理屈だ。あるいは、責任を問われるとすれば誰よりも先に天皇になるが、現人神の責任を問うことは難しい。明治以降のその伝統が、現在の日本にも受け継がれている。

 責任を取らないのは、平和でいいではないかというのが支配層の気持ちだろう。しかし、それでは国が滅びる。一番はっきりしていて問題の大きなことは、日本が大東亜戦争の反省をしていないことだ。そのように書くとお前は "自虐史観" なのかと問われそうだがそのつもりはない。

 大東亜戦争で誰が悪かったのかといえば、それはもちろん欧米が悪かった。そんなことははっきりしている。日本は悪者に負けた。というか、日本も決して褒められた国ではなかったが、一枚どころか二枚も三枚も上手の悪者に負けたというのが正確なところだろう。

 だからこそ反省することはたくさんある。ここで日本人が理解できないことは、反省と謝罪は別物であることだ。反省とは、将来的に欧米と戦争をするとしたら、どうやったら勝てるかを考えることだ。「 過ちは 繰り返しませんから」というフレーズはそのようなことを意味していると考えると良い。そして、そのためには大東亜戦争ではどこをどのように失敗したかをはっきりさせ、改めなければならない。

 野球の野村克也監督が生前よく使った言葉に、「勝ちに不思議の勝ちあり。負けに不思議の負けなし。」というものがあった。江戸時代の大名で剣の達人であった「松浦清」の剣術書に出てくる言葉らしい。要するに、負けるには負けるだけの理由があるということであり、それゆえ、なぜ負けたのかをはっきりさせ、そこを改めることが次回の勝ちにつながる。

 何も戦争を奨励しているのではない。大東亜戦争という大失敗には、これ以上ないくらい日本の欠点、弱点、不合理、非効率、認識の甘さ、無自覚、妄想などが多々含まれている。それを見直して日本という国を改めていければ、それだけで世界に冠たる日本になることができる。

 しかし、日本人は反省をしたがらない。なぜかというと、反省をしてしまうと失敗の原因が明らかになり、責任の所在や改善策がはっきりしてしまうからだ。それによって不快な思いをする人がたくさん出てくる。場合によっては地位や収入を失う人も出てくるかもしれない。しかし、だからといって失敗や不正を野放しにしていると、日本という国がますます衰退してしまう。

 その上日本には天皇という存在があり、敗戦の責任は全て当時元首であった天皇に押し付けることができた。アメリカはそれを承知した上で、あえて天皇に責任を取らせなかった。それは同情や親切ではなく、その方が日本を利用しやすいと考えたからだ。すなわち、天皇を生かしておいてアメリカが天皇を傀儡として日本に君臨すれば、日本はこれ以上ない従順な植民地になる。その狙いはピッタリだった。戦後は、アメリカが天皇の代わりに日本を統治し、日本人は総理大臣以下アメリカの提灯持ちをする理想的な植民地となった。

 実質アメリカが日本の天皇となっている現状を改め、日本に代々続く天皇を元首とした国に戻したいという気持ちは分からないでもない。しかしそれは誤りだ。日本に天皇を取り戻した場合、つまり、憲法を改正して天皇を元首とした場合、今度は日本政府がアメリカ以上に横暴に振る舞うからだ。

 現在の日本政府はその試行を行っていると考えた方がいいだろう。あの弱虫で頭も悪い、まるでのび太のような岸田総理が、何でもかんでも閣議決定をしてツラッとしている。突然増税と言い出してツラッとしている。海外に金をばらまいてツラッとしている。政治家が法律に違反して不正を働いてもツラッとしている、国民の声など無視してツラッとしている。アメリカにミサイルまで勝手に売り始めた。

 おそらくこれは、天皇が元首となったと想定しての政治を行い始めた結果だろう。今の岸田総理の政策や態度は、背後に天皇という "元首" がいると仮定してのものだと考えると理解がしやすい。

 もちろん、実際に天皇が元首という憲法が成立した場合には、そんな程度ではすまない。弱い者が天皇の威光を利用できるとなると、国民に対して嵩にかかって酷政を始めるものだ。おそらく日本人は消費税30%を覚悟しなければならないだろう。ワクチンは義務化されるだろう、マイナンバーカードがワクチンパスポートになるだろう。国民は生物兵器の実験台として使われるだろう。政府への従順度によって自由が制限されるだろう。日中戦争が始まるかもしれない。

 天皇の存在はもう一つ、あまり意識されない弊害がある。それが世襲制だ。現在、法律で世襲制が定められているものは他にないように思う。世襲制の弊害は簡単にいってしまえば自由の侵害になる。

 書くまでもないことだが、私が天皇になることは何がどう転んでもあり得ない。反対に、天皇が一般国民になることも難しそうだ。ある意味国のトップをこのような扱いにしているということは、文化として日本人に様々な影響を与える。

 日本の実質的な自由のなさ、封建的な思考、形式主義、前例主義、学閥、門閥、藩閥などは、元をたどっていけば天皇制に突き当たる。つまり、最初から動かしがたい不自然な暗黙のルールによって、人が縛られる体制といえる。日本における堅苦しく、柔軟性の乏しい、息苦しいシステムは天皇制に端を発している。

 私は現在の象徴天皇に対してはそれほど文句を付ける気持ちにはならない。日本には日本独特の歴史があり、天皇制はその現われの一つであるからだ。日本人が歌舞伎や相撲や落語を好むのと同様の意味合いで、天皇を好むのもありだと思っている。

 しかし、天皇制が象徴天皇を越えてはっきりとした実害を及ぼす "元首" になるのであれば、それには反対しなくてはならない。国の存亡に関わってくるからだ。大東亜戦争で危うく国が滅びそうになった日本は、明治憲法(大日本帝国憲法)という設計図が間違っていた可能性がある。「
天皇ハ神聖󠄁ニシテ侵󠄁スヘカラス」では現代の国家は運営していけない。

 現在の自民党は世界でも屈指の超極右過激派団体だ。国民の命や財産を守るどころか、そんなものは二の次三の次と考え、平気で殺傷・強奪しつつある。そして、憲法改正によって時代を前に進めるのではなく、戦前に戻す事によって一層過激さを強めようとしている。再度誤った設計図の元で国を運営したがっている。支配者にとって都合のいいばかりの憲法では、国は衰退し、終いには滅びてしまう。つまり大東亜戦争同様の、あるいはそれ以上の大失敗が繰り返されてしまう。

 天皇に対しては、タブーという感覚が日本人にはあるのではないかと思う。だから、SNS上でも話題に上りにくい。しかし、だからといって政府・自民党のなすがままに放置してしまうと、大変に危険であるという意味を込めて今回取り上げてみた。