「よもやま話」と題してしばらく書いていたけれども、なんだか飽きてしまって、つい最近「どうでもいい話」に変えてみた。ところが"どうでもいい"となるとちょっと投げやりな感じがして自分で嫌気が差してしまった。そこで今度は「茶飲み話」に変えることにした。「隠居爺の世迷言」も「隠居爺の茶飲み話」でいいような気がするけれども、まだまだ人間として毒気が抜けていないみたいだから、やっぱり世迷言でいいのだろうと思う。

 とまあ、世の中と関係のない、それこそどうでもいいことを書いたけれども、自分の世界のことは右にするのも左にするのも自分の自由。いいね、自由というのは。自由の何がいいかといえば責任を取らなくていいこと。自分の好き勝手にして、失敗してもペナルティがないというのはもう最高。

 ただし、それは趣味の世界だからであって、仕事となればそんな自由などあるはずもない。仕事はそれによって金を得るのが普通で、失敗すれば金は入ってこなくなる。それって残念だけれど、当然といえば当然。そこは、趣味の世界とはっきり違うところ。

 それを勘違いしているのが最近の自民党政権で、特にひどいのはワクチン。死人が何十万人も出た。ウクライナ支援なども大失敗だった。しかし、自民党政権は趣味でやっているので、全く責任を取る気配がない。間違いを認めないし、謝る気もない。気楽なものだ。そんな総理大臣なら私でもすぐにできる。自民党も少しはプロ意識を持ってはどうかと思う。おっとっと、茶飲み話、茶飲み話。

 そうそう、茶飲み話なんだから、お茶の話からいってみよう。しばらく不思議に思っていたことがあったのだけれど、つい最近よそ様のブログを読んでいて少し分かった。不思議というのは私の場合、紅茶を飲むとなぜか眠くなる場合があること。

 おかしいなあ、カフェインには眠くなる作用もあるのかと思って調べてみたけれど、そのような話は見つからなかった。どうやらカフェインが影響しているのではなかったようで、関係するのは「テアニン」という物質らしい。

 ネットを検索すると、サプリメントとしていくらでも売っている。ふ〜ん。知らなかった。私の場合は、日東紅茶の「デイ&デイティーバッグ50袋入り」という安物紅茶を飲んでのこと。これまたちょっと不思議なことがあって、眠くなってどうしようもなくなるときがあるのだけれど、夜遅く飲んでランランと目が冴えたこともある。自分の体の状態で変わるのかもしれない。それに、緑茶にもテアニンは紅茶以上に含まれているらしいけれど、緑茶を飲んで眠くなるという記憶はない。

 コーヒーにはテアニンは含まれていないらしい。ただし、コーヒーのカフェインには毎日お世話になっている。今は一日一杯しか飲まないけれど、50歳くらい頃から退職するまでは仕事でストレスを感じるようになったものだから、2杯、3杯と具合が悪くなるくらいまで飲んでいた。

 カフェインというのは覚せい作用があるから、景気付けになるんだよね。「いやだなあ、こんな仕事したくないなあ」と思っているときには、カフェインをたくさん取るといい。量と自分の体の調子に気をつけながらだけどね。

 私はコーヒーをけっこう飲んでいた頃でも土日には断っていた。良かったのか悪かったのかしらないけれど、何となく土日は休肝日という感じで。健全だったなあ。

 コーヒーの自家焙煎を始めてからは3年ほどになる。全く何も知らないところから、ネットを頼りに試行錯誤を続けてきた。コーヒーの自家焙煎については、「家庭でできる珈琲の焙煎方法をお伝えします!【煎りたてハマ珈琲】」という動画がベストではないかと思っている。というか、この動画がなければ私は自家焙煎をあきらめたかもしれないという気がする。

 もっとも、ここ数ヶ月はなんだか不調が続いていた。どうもうまく焼けない。あれやこれや試行錯誤を続け、やっと昨日は"まあまあ快心の出来"といった感じになった。なぜ不調になったかを考えてみると、おそらく一番の理由は焙煎する豆の量を増やしたせいではないかと思う。

 今は大体330gくらいの生豆を焙煎している。それで私の20日分くらいの量かな。もっとこまめに焙煎すればいいのだけれど、なにしろ怠け者なものだから、一度焙煎したらしばらく休んでいたい。でもたくさん焙煎しようとすると難しくなる。

 私の焙煎方法は、下は卓上用ガスコンロで、その上に100円ショップで500円する片手鍋を置いて、それを揺すって焙煎する。100g程度の豆だと、そうやって揺すりながら焙煎すれば十分なのだけれど、300gともなるとそれでは撹拌し切れなくなるみたいだ。そこを無理に撹拌しようとすると、鍋蓋が勢い余って飛んでいってしまう。今まで、そんなことを5、6回やってしまった。もちろんそれをやると豆も散らばる。

 そこで、鍋を振るときには左手で蓋を抑えながら思い切り上下にも振ってやるようにした。手軽という感じはなくなるけれど、つらい作業というほどでもない。そしてそれをすると、焙煎がうまくいくんですよねえ。やっと気持ちが落ち着いた。コーヒーの味も今までよりも出ている。火加減についてはもう少し研究の余地ありというところだけれど。

 しかし、なんですねえ、自画自賛になってしまうけれど、私の趣味の料理に対する姿勢というのはなかなかいいと思う。まず第1に自分で勝手に嬉しがっている。「おっ、いいぞ、いいぞ」「いいよ、いいよ、その調子」という感じ。全然ネガティブにならない。

 そして、慌てず、焦らない。たまに大失敗もするけれど、「ははあ、なるほど」で終わる。「また機会があれば、違う方法でやってみましょ」程度に考えられる。

 もっとも素晴らしいところは、自分で作った料理を自分で食べて、「これはうまい」と思えること。「レストランに行くよりも、専門店に行くよりも、自分の料理の方がうまい」と感じられるんだなあ。ひそかに、「三國シェフよりも自分の方が上手」と思っている。あはは。まあ、私には「私の好みや、私が今どんなものを食べたがっているか」を知っているアドバンテージがある。その点は間違いなく三國シェフよりも上なんだな。

 このスーパーポジティブというか、超楽天思考というか、まるでアホだけれども、趣味である限りは理想的。なにしろ、自分で喜んでいるだけで誰にも迷惑がかからない。考えてみれば私はこういうことが好きなのかも。仕事をしているときも、そうそううまくはできなかったけれども、自分1人で楽しめるものを見つけてそれに取り組んでいたがった。

 人間はそれでいいのだろうなあ。基本は1人で生きていくべき。ただし、1人で生きていこうとすると、できないことにぶつかることがある。集団になるのはそういうときだけでいいような気がする。1人じゃ難しいときには助け、助けられするといい。常時つるんでいると、うまくも行かなければ、成長もしない。

 そういう意味でダメなのがアメリカ。あの人たち、とにかく人を巻き込みたがる。自分たちだけでは何もできない寄生虫のような存在。世界中を巻き込み、騒がせ、混乱させて、それでも満足する結果を得られないでいる。少しは私を見習ったらどうだろうか。

 はは。今日はまた、いつにも増して大きなことを書いてしまったけれど、アメリカの右往左往ぶりを見ていると、結局のところ自信がないのだろうと思わせる。どうしていいのか分からないのじゃないかな。なぜかというと、結局彼らは人間というものを全く理解できていない。それは、精神面でも身体面でもどちらもだね。歴史の浅い国だから、悲しいことに蓄積された知識がないのだろう。

 人間というものは、精神も、身体も、極めて精緻で複雑なシステムなんだよね。もちろんコンピュータ(AI)などは遠く及ばないくらいに。しかも、精神も身体も不可分で密接に絡み合っている。ところがアメリカ人というのは軽薄短小すぎて、そんなことは想像すらできないらしい。だから、昔から幼稚で的外れな真似をたくさんやってしまう。つまりレベルが低いのがアメリカ文化の特徴。コロナ騒動もワクチンもその代表例になる。

 まあ、そんなアメリカに、ヘイコラ付き従うしか能がないのが日本なのだけれどね。幼稚なアメリカ人よりももっとお馬鹿なのが日本人ということになるのかな。