昔の函館を見たいと思って、「ギターを持った渡鳥」という映画を見た。1959年(昭和34年)の作品であるが、その当時私は父親の転勤で函館に住んでおり、ほとんどなくなっている記憶に重ね合わせるのが目的だった。

主演は小林旭と浅丘ルリ子で、他に宍戸錠、渡辺美佐子、金子信雄らが出演している。やはり主役の二人は圧倒的な存在感である。そこでまず驚くことは、年齢の若さである。小林旭が20歳、浅丘ルリ子が19歳である。その若さで人気スターであり、映画の主役をこなすのだから大したものである。

次に思うのが、主役が二人とも現代っ子であることだ。昔の人を捕まえて現代っ子というのもおかしいが、私の感じ方からすると、石原裕次郎や吉永小百合は昔の人で、小林旭や浅丘ルリ子は現代っ子である。なぜだろう。自己主張の強さ、既成概念に束縛されない自由さ、華やかさ、そんなものを感じさせるせいだろうか。

浅丘ルリ子は、私よりもずっと年上のせいもあって、今まであまり意識してこなかったが、大変に魅力的な女の子である。ネットで調べてみると、4人姉妹の次女で、育ちは悪くないようだ。育ちの悪くない「おきゃん」が私の好みの女の子かもしれない。

映画の中で浅丘ルリ子が小林旭に向かってこんなセリフを吐く。「でも嫌い。そんな煮え切らない滝さん大嫌い。」 おい、この果報者、と思う。私が若き日の浅丘ルリ子から、「大嫌い」なんて言われた日には、嬉しくってそのまま天国に行ってしまいそうである。

この間記事にしたが、私の好きなアンジェリーナ・ジョリー。そのアンジェリーナ・ジョリーと浅丘ルリ子とで、共通点を感じるのは私だけだろうか。何が共通点かというと、目と唇である。ひょっとすると、目と唇の作り方、アンジェリーナ・ジョリーが真似したのかもしれないと思ったりもする。

ここから少し話を難しくするが、この映画を見終わって感じたことは、「今の日本はすっかり失ってしまったなあ」ということだった。何を失ったのか。それは「善と悪」「味方と敵」「富と貧」「美と醜」「安全と危険」「男と女」「上位と下位」などである。

60年前と現在を比較すると、何から何まで格段に進歩している。しかし、なぜ進歩したかというと、それは私たちが「善と悪」「味方と敵」「富と貧」「美と醜」「安全と危険」「男と女」、「上位と下位」などを食い物にして成長したからである。つまり、悪、敵、貧、醜、危険、女(性差)、下位などをこの世から追放することによって、60年前よりも現在の方が進んだ世の中になったのである。

しかし、何事にも副作用はあるもので、価値の差を食い物にして何が生じたかというと、方向性のない混沌とした世界である。人間というものは相対的な理解しかできないようになっており、常に悪があるから善を感じる、貧乏人がいるから金持ちを感じる、敵がいるから味方と分かる、男がいるから女と分かるなどのことになっている。

それら両者が歩み寄ってしまうと、どちらも感じ取れない、退屈でグレーな、温度差のない世界になるだけである。それでは人は潑剌とした、意欲の持てるような生活を送ることができなくなる。全体的に沈滞し、新しいものが生まれてこなくなる。

このような傾向はおそらく世界の先進国で共通のものではないかと思う。トランプ大統領が出現してきたのも、はっきりした価値に基づいて、敵と味方を明確に分け、生きていく道を示してくれるように感じられたからではないだろうか。

ただし、トランプ大統領は期待外れだった。やはり不動産屋は日本でもアメリカでも口先だけなのだろうか。つまり、威勢のいい発言と裏腹に、トランプ大統領はこの上ない平和主義者であり、オバマ前大統領以上ではないかと思うくらいである。戦争の機会をことごとく潰してきた。

安倍総理も敵が欲しくて仕方がない者の一人である。それが「コロナウイルス拡大こそ、第三次世界大戦であると認識している」との発言につながった。しかし、新型コロナウイルスは安倍総理の期待などどこ吹く風で、敵になり得ない貧弱なウイルスだった。おかげで日本は対策を誤り、大損害である。

思い起こせば、エヴァンゲリオンが放送されたのが1995年(平成7年)であり、その頃にはもう日本は敵を見失っていたのかもしれない。シンジ君の情けなさに私は大いに感動したものだったが、それはちょうど小林旭の正反対である。

なぜ、シンジ君は情けない子で、小林旭は頼もしい正義の味方かといえば、それは敵の性質に左右されているからである。「使徒」なるものは意味不明の存在で、とりあえず戦うべき相手ということになっているが、使徒の目的は何か、使徒と戦う人間は何のために戦うのか、はっきりした理解がなされていないままである。だから、シンジ君も基本的な自分のスタンスを決めかねてしまう。

その点、小林旭は単純、明快である。誰にでも分かる社会のはっきりした敵と戦う。明らかに滅ぼすことが必要な悪と対面しており、どこにも迷う要素がない。そうなると、女の生き方も単純で明快なものになり、浅丘ルリ子は、これも私の大好きな「しずかちゃん(ドラえもん)」を演じていればよい。また、社会に迷いがないために、若い俳優でも主役が務まる。

そのように考えていけば、これからの日本の総理大臣に必要とされるのは、はっきりとした敵を作る能力である。悪を見いだす能力である。それができれば、日本は息を吹き返して、活気に満ちあふれた健全な国になりうる。協調などと言っている間は国は発展しない。しかし、それはトランプ大統領でも成功していない難しい課題である。日本の総理大臣がこの先誰になったところで、できるとは限らない。

今回の新型コロナウイルス騒動のように、病気に頼ってはダメである。疾病利得などが、そうそう簡単にあると思ってはいけない。是非とも敵にふさわしい敵、悪にふさわしい悪を見いだしてほしい。そうすればまた、浅丘ルリ子のような美人女優が生まれてくるに違いない。