「天保義民事件」というものがある。なんとも不思議な事件である。よく理解できない。

 

以下その事件に触れるが、例によって私の知識はネットを検索する程度の浅いもので、それ以上のものはないのでそのつもりでお読みいただきたい。

時は江戸時代末期、1840年の話である。「松平斉典」という悪者がいたことから話が始まる。松平斉典は今でいう埼玉県川越のお殿様であった。しかし、藩の財政が苦しい、こんな貧乏藩にいるのは嫌だと思って画策した。

どうしたかといういうと、自分の実子がいるにもかかわらずそれを外して、徳川将軍の息子(25男、51番目の子)を跡取りとして養子に迎え、また、賄賂をたんまり渡すなどいろいろ策を弄した上で、金持ちの藩である庄内藩(山形県)に転封(転勤)させてくれと幕府に願い出たのである。やだねー。

これに対して、江戸幕府老中「水野忠邦」は「お主も悪よのう」と言ったか言わなかったか知らないが、賄賂に目が眩んで願いを聞き入れたのである。その結果、いわゆる三角人事(三方領地替え)が行われ、気の毒なことに、狙われた庄内藩のお殿様である「酒井忠器」には、左遷も左遷、石高が約半分の貧乏藩である越後長岡藩へ行けと命令が下りてしまった。

この酒井忠器というお殿様、きっとゴマスリが下手だったんだろうなあ。上からしてみれば、気が利かず、お世辞を言わず、付け届け一つしない田舎者だったに違いない。あ〜あ、私と同じである。

さて、ここまではサラリーマンでもよくある話で(本当によくあるかどうかは知らないが)、実に分かりやすいのだが、ここからが不思議の世界である。

何が起きたかというと、殿様の転勤反対運動が、庄内藩の百姓等から湧き上がったのである。そんなことをしたところで時は江戸時代である。江戸に向かった陳情団はすぐに捕らえられて戻されてしまった。しかし、百姓等はそんなことではめげずに、再び陳情団を組んで江戸に向かい、一部は捕らえられたものの、逃れた者が幕府要職に訴状を届けることに成功した。

そして、訴状の内容が年貢取立てが酷すぎるなど藩政の非を訴えるものではなく、「我々の大好きなお殿様を転勤させないで」という変わったものであったことから江戸でも話題となり、庄内藩の農民などを支持する声が上がり始めた。また、この頃ちょうど将軍が死んだこともあって、幕府の抵抗勢力である外様大名などが「この転勤ってどうよ」みたいな伺いを、幕府に提出するなどのこともあった。

それでも幕府は動きを見せなかったことから、庄内藩の百姓たちは、今度は仙台藩や水戸藩に集団で押しかけて騒ぎ、仙台藩や水戸藩からも「軽く考えないほうがいいんじゃない?」という意見が幕府に上がることになった。

この一連の騒ぎに、ついに幕府も黙っていられなくなり、事情を調査して、汚い手口を使っての転勤はダメと命令を取り消す決定をし、転勤は中止になった。

とまあ、そんなことであるが、まるでテレビドラマのようによくできた話であり、現実に起こったこととは思えないくらいである。一番の不思議は、殿様が別の殿様に変わるからといって、百姓が騒ぎ始めるものなの? ということである。

現在で言えば、安倍総理が大臣を任命した直後に国民の反対運動が起き、それがポシャるというようなものである。そういう話は聞いたことがない。ところがそれが江戸時代に起きていたのである。江戸時代の方が自由で民主的だった?

それにしても、士農工商の身分差別があった江戸時代である。切り捨て御免の江戸時代である。幕府の命令に異を唱えて訴え出るなど死刑ものだろう。百姓にとっていい殿様だったかもしれないが、だからといって次に来る殿様だっていい人かもしれない。大体において、庄内藩は豊かな土地柄であった。土地と気候が良く、米がたくさん獲れたのである。せっかくそんないい所に住んでいた百姓なのに、命をかけて争う必要性などないはずである。

私は、その不思議さの裏には時代の流れがあったのではないかと感じる。事件は1840年、間もなく明治維新(1868年)を迎える頃である。幕府は賄賂で人事を決めるほど腐敗し、また、外に対しても統率力を失いつつあったに違いない。天保の改革をしている最中だったが、その改革自体が不満の種でもあっただろう。

100年以上前(1703年)に討ち入りを行なった赤穂浪士は、世の秩序を乱したとして四十七士全員が切腹を命じられたが、庄内藩の農民は無罪放免であった。もはや正面切って大っぴらに逆らったところで、幕府には大したことができないということを、武士も農民もみんなが感じ取っていたのかもしれない。だから不合理な人事が行われたときに、「いっちょケチつけてやろう」ということになったのではないか。


加えて、庄内藩の百姓は比較的裕福だったことも影響しているかもしれない。人は裕福であれば周りのことを考えるようになる。意見も持つようになる。善悪にも敏感になる。自分のあるべき姿を考えるようになる。食えるか食えないかというレベルよりも高い文化的なものが庄内藩の百姓に発生していて、それが直接自分たちの生活とは関係ないことに口を出そうとした背景かもしれない。

一方、江戸幕府は渋々転勤を中止にしたものの、その後庄内藩には疎水工事を命じて多大な出費を強いたという。また、この転勤問題を調査して反対の意見を将軍に提出するなどした江戸南町奉行は、クビになって永預(ながあずけ)の身となり、失意のうちに亡くなったらしい。「江戸の仇を長崎で」である。現代でもこのくらいのことはあるかもしれない。

 

さてこの事件が、実際にも私がここに書いたことと大きく違わないものだったとすれば、日本は江戸時代の昔から相当に民主的な国家であったことが推測できる。なにしろ、農民の主張で、武力を用いたわけでもないのに江戸幕府の人事をひっくり返すなどという大それたことができたのだから、すなわち、為政者よりも住民の意見の方が通ったのだから、部分的ではあっても民主主義が体現されていたことになる。

 

また、この事件は市民運動のお手本でもある。身分の低い田舎の農民が抗議行動を起こし、それが世論の支持を受け、支配階層である武士の一部まで味方につけて政権の決定事項を覆したのである。日本は明治や昭和の憲法によって民主主義が作られたのではなく、長年の歴史によって民主主義が支えられている国であるといえそうである。

 

ところで、時の将軍徳川家斉であるが、私は次に生まれ変わるとしたら、この徳川家斉になることに決めた。享年69歳は当時としては長生きだったろう。15歳で将軍になり、子供が男子26人、女子27人で、分かっているだけで16人の妻妾を持ったという。まあ、優に私の1000年分以上生きた価値はあるね。うらやましい。てへぺろ