環境省はよほど暇ですることがないらしい。コンビニも含めてレジ袋を有料化する法律を成立させようとしているという。くだらない。
そんなどうでもいいみみっちいことに、いちいち国が口出しすべきではない。法制化など言語道断である。どうせ、環境省の木っ端役人の点数稼ぎでしかないのは間違いないところなのだから。

レジ袋を必要ない人は貰わなければいい、貰って何かに使う人は使えばいい、家に持ち帰って不要になればゴミとして捨てて燃やしてしまえばいい、あるいは分解するというので埋め立ててしまえばいい、それだけの話である。せっかくレジ袋に商品を入れて渡してくれるのに、それで困る人は誰もいないのに、なぜ国民の便利な生活を邪魔をしようとするのか。野暮な話である。

どうしてもレジ袋が許せないというなら、レジ袋はこれまでどおり渡して、そのレジ袋の処理をいかに環境に影響なく行うかを考えるべきである。レジ袋の処理によって産業が活発化する方向に進むべきである。レジ袋を渡さないという発想は知能の低い、あまりに安直で軽薄なものである。給料を返せと言いたい。

今の世の中、省エネとか節約とかもったいないとか、そのようなことがさも美徳であるかのように言われているが、私はそれは完全な間違いであると思う。贅沢こそ大切なのである。日本人にその事を分かっている人がどのくらいいるだろうか。もちろん無駄な浪費をしろと言っているのではない。また、個人のレベルでやりくりすることを否定しているのではない。そうではなくて、国民全体として贅沢できること、より豊かな生活をできることが必要なのである。

全ての、美術、音楽、建築、スポーツ、科学、文学などは豊かさゆえに生まれたものである。贅沢の結果生まれたものである。贅沢は社会にいろいろなものを残す。京都に観光客が押し寄せるのも、かつて贅を尽くした時代の産物を見に来るのである。もっと言えば、日本が世界的に尊重される国であるのは、かつて贅沢を尽くした時代の遺産が豊富に残っているためである。もちろん、それは物だけに限らず、人も含めた無形文化まで含まれる。天皇ですら私はそういう見方をする。日本の無形文化遺産の最たるものは天皇であるといってもいい。平和で豊かな国を長続きさせてきたことの証左である。

戦争中ならいざしらず、省エネ、倹約などの、言ってみれば貧乏が生むものはなにもない。それをよく示しているのは韓国である。有史以来豊かになったことのない国であり、名だたる建築物も文化もない。科学は発展せず、人はいまだに洗面器様の食器で食事をし、口を開けば嘘が次々と飛び出してくる。貧乏の歴史がどれだけ悲惨で恥ずかしいものか、韓国を見れば分かる。韓国に「日本に感謝すべきである」と言える人が出てくるまでには、まだこの先百年も二百年も豊かな生活が続かなければならないだろう。たどり着けるかどうか。

日本で東大に進学する者の家庭は、他の大学に進学する者に比べて裕福であるという。当然である。贅沢をした人間のほうが賢いのである。だからといって貧乏人に金を渡せば賢くなるかというとそうはいかない。貧乏人は金の使い方を知らず、それを理解できるようになるには何世代かかかるのである。

現在日本では軽自動車が一番売れているという。年収200万円の若者が、それで生活できると疑問に思わないという。そんなことではダメである。貧乏から生まれるものはない。もっともっと国民一人ひとりの収入を増やして国民に贅沢をさせなければ、日本という国は先細りである。

国は個人個人の努力とは別に、いかに国民に豊かな生活をさせるかについて総力を挙げて考えなくてはいけない。環境省も含めてである。また国が豊かになればなるほど、諸外国からの横やりが激しくなる。豊かさに合わせて国防が同時に必要となる。

私の世代は日教組が強かった頃で、富国強兵はさも悪であるかのように学校で教えられた。真っ赤なウソを教えられたのである。富国強兵こそ、古今東西を問わず国としての目標とすべき普遍的な価値である。そこのところを環境省の木っ端役人にも理解してもらいたいと切に願う。