坊は立ち止まって地下鉄のホームに座りこんだ。彼以外のものはみな動いている。今の彼には、それを斜めに見上げる力もない。生命の衝動すべてを奪われたようで微動だにしない。

 電車がホームに到着した。ドアからたくさんの人が吐き出され、さらなる人が飲み込まれていく。それは五分ごとに繰り返される。この反復運動こそが人生における最低限のノルマのようだ。とうてい自分にはできない。坊はうつむき、時折、見るともなしに顔を上げる。そして、電車とともに運ばれてくる人いきれを吸っては吐く。それ以外、自ら何か行おうとする様子はない。誰かに助け起こされるか、蹴り飛ばされるか、あくまで他力を待っているようでもある。

 電車の出発音につられるように顔を上げた。とっさに坊は起き上がり電車にかけよる。一瞬、ガラス窓に父の姿を見た。父は頭を白いものに覆われ、表情なく人込みに揺られていた。直後、電車は彼を待たずに動き出す。電車内の男が父であったかどうか確認はできなかった。もう追いつけない。五分後では遅すぎた。

彼が知っている父は、公的には運転手付きでの移動が許されていた。あれは本当に父だったろうか? 確かめる術はない。もしもあれが父であったなら、坊は電車に追いすがり詫びたかった。謝罪の先に何があるかまで考えは及ばない。ただ何かにすがりつきたかった。その瞳が何物とも噛み合わぬまま閉じられた。数台の電車が彼の前をゆき過ぎる。彼はふたたび空間へと投げ出された。その顔は何も映さない。無垢と言うのははばかられ、肝心な何かを身につけていないと言いたくなるような姿をしていた。

坊にとっての問題は、衣食住事足りた地点からの進路と言えた。思いの外、短い期間だったが、ただただ彼はスラムへと日参し、初めて得たと信じる友人二人と顔をつき合わせ暮らすようになっていた。それは彼にとって切迫した行為に違いなかった。が、彼の下に今現実に立ち向かう力は残されていない。

「スミマセン、危ないですよ」

 坊は声のした方向に力なく会釈した。声の主は女であった。

 坊の猫背がすっと伸びた。彼は瞠目し、女の後を追う。女は黒くスラリとした全身をワンピースに包んでいた。鮮やかな原色が目に染みる。坊は女に吸引されるように電車に入っていく。車内は混み、乗り込んですぐ彼と女は密着した。前夜から、彼は一睡もしていない。満員電車の揺れに身を任せ、自分の全体重を女に預けた。女は人垣に支えられながらその場に踏みとどまり、じきに何倍もの力で押し返してきた。直後、女の鋭い目が彼に注がれた。フラフラと立ちくらみしているような坊の細い腕がねじ上げられた。坊は女と周囲の協力によって次の駅で降ろされた。

「アナタは命の恩人だ。オレは命拾いしたんだ」

坊の言葉に、女はそれがどうしたという顔で返事をしない。

「ありがとう。アナタのおかげで生き返れそうだ。こんなオレもまた立ち上がれる」

「アンタが死のうと生きようと知ったことじゃない。ただ、アンタは私を怒らせた」

女は坊から目を離さない。その姿は、自分より弱い生き物を危険区域から救い出しているようでもある。ひとり坊のみが表情を忘れた面持ちで女に手を引かれた。

「ひき殺しちまったんだ。人を。オレは、人を下敷きにしてしまった‥‥‥」

坊は口をモゴモゴ動かし、女は逃げ出す意思もなさそうな彼の腕をさらに強く握りしめた。彼の首はしなり、発する言葉もそれに合わせるようにたわんだ。

 

 

 男はアクセルを踏みこむ。彼は背後から何物かに突つかれているようだった。ブラックベルトを出る際、旧工業団地の解体が始まろうとしていることに気づいた。旧団地は周囲を黄色いテープで幾重にも囲われ、改めて、「(何人たりとも)立ち入り禁止」の看板が張りめぐらされていた。長年、取り壊しが延期されビルの存在すら忘れていたのに、街を出る間際、目に飛びこんできた。更地にされた後、そこに何が建つのか見ることはかなうまい、直感した。

 

 中心街を過ぎ、郊外を通り越すと、また縮小したような都市が現れ、次々に大都市の模造品(ミニチュア)のような街が過ぎ去る。男はただ前だけを見、時々現れる検問を上手く逃れることに専心した。ボロ車は巧みに街道を抜けた。時折、警官の姿が不意を突くように現れたが、止められることはなかった。

 男は走り続けるしかない。何ものにも妨げられるわけにはいかない。唸るエンジン音に混じり、声が聞こえた。

 「どこまでも逃走せよ」

 車は左折、右折を繰り返し何ものにも妨げられない。昨夜を友の命日とするなら、そのほんの数時間前に国家的大人物の命が事切れた。おそらく、その日は来年から国民の休日となるはずだ。ガスステーションでの話によると、昨日、この国の王が亡くなった。近日中に国葬が催され、幾多の来賓が訪れる。よって警備は今後、堅固になる一方だという。

 早いところ抜け出さねば、ただそのためだけに燃料は消費された。車体が広い通りに出た。黒いボロ車は快調そのもので主要都市をかけ抜けた。

 雨はやんだが、あたりは暗さを増す。男は、油断禁物とつぶやきながらも安堵感に包まれるのを禁じえない。直感に従ったのは間違いじゃなかった。周囲に建物や対向車はない。看板によると、遠いがこの先に必ず海がある。今はまだ月しかない。薄ぼんやりと下顎が尖っている。男は、今にも穏やかな海原に抱かれるような気がした。彼はアクセルをさらに強く踏みこむ。車は奇妙な音とともに前進を続ける。このまま行くと、鉄の塊はやがて周囲の闇と同化し、月の中へと消え入ってしまいそうであった。が、闇に溶け入ることはない。海と月世界へとまっしぐらに思われた車は急激にスピードを緩めた。車体は明らかに闇夜から浮かび上がった。ついには、ガスの抜けるような音とともに全身を軋ませ、終息してしまった。昨夜から走りとおしであった男も止まらざるをえない。

 男は車外に飛び出し絶叫した。彼は今になって初めて周りに立ち込めるものすべてを負荷に感じた。皮膚の内側が痺れ、毛穴から何かが飛び出してきそうだ。男は闇夜に吠え、車体を何度も蹴る。あたりでは静寂がせせら笑う。彼ひとりが荒い息を吐き、肩を揺らす。懸命に深呼吸したが、激しい息遣いは収まらない。

 男は諦めたようにトランクを開ける。一瞬にして、五感を塞ぐような臭気が発ちこめる。黒い寝袋をトランクから半分ほど引き出し、左肩に担ぐ。それはすでに鉛そのものと化していた。両足を踏ん張り一息で持ち上げる。彼は重荷をずらしながら、震える足を迷うことなく踏み出す。左肩上、Tシャツと寝袋ごしに二つの肉がこすれあう。その足は一歩ずつ着実に進む。男が不意のように右手を離す。身体は不安定に揺すられたが、彼には踏みとどまっている自信があるらしく、側頭と左肩、腕で巧みに寝袋を挟み込み、右手でタバコとライターを探る。煙は見えない。それでも闇の中、荒い息とこすれるような足音とともに微かな明かりが明滅した。彼が必死になって背負っているのは、決して置き去りにはできないものだった。彼は数歩ごとに大きな袋を抱え直すために、何度もその場で跳ねるような仕草をしなければならなかった。

 その耳には何も届かない。男は、自身と正対するよりほかない。今さらながら、目の前の直線は長すぎた。海が見えた気がしたのは幻であったか? 夜が明けたら、こうしているわけにもいくまい。彼の頭に、ぼんやりと対策のようなものが兆す。夜が明けて埋葬するのも今すぐ側道脇に埋めるのも同じだ。むしろ面倒事は早いところ終わらせた方が良い。それはすぐにも実行されるべきだ。あたりは暗く人目もカメラもない。それでも重荷は降ろされない。巨大すぎる砂袋を担がされているようにしか見えないが、誰に命ぜられたわけでもないのに彼はそれを進んで行っている。背中越しに、友と共有できる時間を慈しんでいるようでもあった。

 男が荷物を負ったまま後ろを振り返る。何か気配を感じた。くわえていたタバコが吐き捨てられた。

 ……始発か?

 男の背後に音もなくバスがやってきた。ライトはともされていない。けれども車体は薄っすらと闇の中から浮き出てきた。

 漆黒を滑るようにバスはやってき、男の前に止まると、彼を誘うように扉が開いた。無機質な四方体から得体の知れぬ無臭感が漂ってくる。

 男は取り込まれるようにバスに入る。そこには、色のないくすんだ顔が並んでいた。一通りバス内を見渡すと、何ものかに操られるように最前列に落ち着いた。重い袋は窓側に立てかけられた。凝り固まった肩が急激にほつれ、重石が取り払われたようであった。余りの軽さに、男は揺れもしないバス内で、自分の体だけ跳ね上がりそうな気がした。

 荷物を置くと、通路を挟んで反対側の窓側に腰を下ろした。外観からはわからなかったが、窓には黒い金網が幾重にもはめ込まれ外界はほとんどのぞけない。前方に目をやると、三日月がボロ車から見ていたより遥か遠くにある。だが、男は月の下にある海の存在を疑いはしない。そして、彼はバスに身を委ねる。バスは音もなく走り出す。男は鼾とともに無我の境地へといざなわれた。

 鼻先に懐かしい香りがした。それと同時に目が開いた。彼の右隣、荷物の近くに立って後方へと何事かささやくものがいる。そこにもう一人やってき、顔を歪ませた。二人は男と目が合うと後部座席へと逃げ帰り、後方が騒がしくなった。

 「お前さんが王か? 裸の王様、参上か? いい気なもんだ」

 はっきりとした活舌だ。バスの奥では、壮年の男が自分より小さな老人につかみかかる勢いだ。周囲も嘲りと無言とで取り囲む。男は荷物を置いた通路の右側の席に移動した。男と荷物に関心をよせていた二人は座席のどこかに紛れ込んでしまった。彼らを追うようにして男は後部座席を睨んだが、誰とも目は合わない。

 男は王様という単語から具体的な顔を思い浮かべることはできない。ただ痩せこけた老人が後部座席で独り立たされていた。男はその後ろにあって、たおやかに佇む貴婦人に目を奪われた。彼女のみが霞のような中にあって、輪郭がはっきりとしていた。

 「オレたちに対する責任は果たさずじまいか? お前さん、世界一の名優にでもなったか? 騙されんぞ」

 「そうだ! オレたちは忘れない。善良な老人ぶったって、かつては大悪党の頭だった。取り返しのつかない、恐ろしい罪を犯しやがった。ところが、ソイツときたら、何の罰も受けず逃げ出そうとしてやがる。アンタがその気なら、コッチにだって考えがある。……可愛いひ孫さまに洗いざらい聞かしてやるさ」

 ダミ声が響く。

 「本当に、裁かれずに済むとでも思っていたのか?」

 一同は聞き取れないような音を一斉に唱和する。王と呼ばれる老人は、まるで自分に対する非難を初めて聞いたような顔で体中を凍りつかせる。刻一刻と高まる周囲の圧力から老人は貴婦人のもとへと避難した。

 「いったい、どんな坊や様だ? オレたちに王様王様って、さんざん嘘っぱちの名前で呼ばせといて、ちょっと追い込まれて都合が悪くなったらこれか?」

 彼は老齢者のようでいて奇妙に皺のない顔を夫人の胸へと埋めた。王と呼ばれる老人は脆くもくずおれ、貴婦人はそれを当然のように抱き止めた。彼女はその柔らかな視線と姿勢とで王を包みこむ。あたりに充満していた怒りに水が差された。

 一同は、貴婦人の初めて触れたような面差しに有効な言葉を見い出せない。貴婦人の瞳は、男のそれとも合った。だが、中間地点でさえぎるものが現れた。彼は、バス内で唯一のこどもだった。その小さな瞳を見開き、背筋は誰よりも張っていたが、全身は焼けただれている。彼は王様のもとに進み出ると、全体を見晴るかすようにした。

 「こんな所で、たった独りの年寄りに責任をなすりつけて、アナタ方はこれまでいったい何をしてきたのです?」

 柔らかい声だ。

 「今頃になって、すべてはお前のせいだなどと言われても……。この人をギロチンにでも掛けるのですか?」

 少年の小さな背中越しに、泣き止んだ老人が呆けたように顔を上げる。

 「確かに、こどもって奴は、こどもにしか言えないことを言いやがる」

 皮肉なつぶやきに少年が微笑を浮かべる。

 「そもそも、責めに値するような具体的な他者がどれくらいあるでしょう?」

 少年は胸のあたりをさすった。

 「それから、アナタ……」

 こどもが背後を見た。その顔、唇から黒い液体がこぼれた。

 「この期に及んで悪気はありませんでした、なんて言いやしませんよね? アナタまでが泣いて終わりにしたりしませんよね? もしもこの世界に悪事があるのだとするなら、それはできうる限り意識的になされねばなりません。悪気はなかったなんてベソをかいて終わるようでは結局何もやり遂せません。そうなると、謝れ、と言われてもそれすらできないのです。自分の足元だけを見つめては涙ぐんで、自分を被害者としか思えず、一生憐れんで終わることになるのです」

 一同、鳴りを潜める。

 「……だけど、殴りつけたくとも拳を取り上げられ、武器も持たされちゃいない。悪い奴を懲らしめるのに、口で責める以外にオレたちに何ができるって言うんだ?」

 座席の合間から声がした。

 「自分で考えて答えを出さないといけません。人は誰しも、どんな乳飲み子であっても、無垢のまま死んではいけないのです。……絶対王なんていないと思います」

「どうしてだい?」

「どうしてって、あなたたちのやり口を見ていたらわかります。顔なしの名無しで、ののしって責めたて、その後どうするんです? 出口は見えますか? 私に言えるのは、アナタ方こそが絶対王だということです。与えられたスペース以外では、何もできない裸の王様……」

 こどもは大人びた口ぶりでそう言うと、貴婦人に一礼して元の席に戻った。彼の瞳は自分の数倍にも及ぶ年かさ、数の人を同時に捉えているようであった。

壮年の男はこどもから目をそらし王様と呼ばれる老人を睨めつける。

「屁もクソもひりません、みてーな面しやがって、コッチや、トブ川舐めるみてーに、一生かけて、肛門の裏まで掃除してきたんだぜ・・・・・・」

こどもはそれには応じず、椅子に座る直前、最前列の男を見た。男は驚いた。こどもの顔面には、かつて不治の病と恐れられていた先天性の皮膚病が張りついていた。それはすでに遺伝子再生療法で完治するはずのものだ。が、彼は治療を受けぬまま、この場にいた。

 「悪臭はここだけでは迷惑です。今すぐ、ここから立ち去ってもらえませんか?」

 男は返事こそしなかったが、こどもの言葉に素直に従った。彼は荷物に手を掛け、一気に弾みをつけた。

 「荷物は置いていけば……」

 背後の声は男に届かない。

 

 男は下車すると、すぐに背中の重さに抗しきれず、荷物をいったん道端に置くと同時に座り込んだ。

 彼は焦るようにタバコとライターをたぐり寄せた。だが、焦ればあせるほど火はつかない。何度こすっても空の火花が散るだけだ。仕方なく、胸ポケットから補充用のオイルを取り出した。

 ライターの火は焦らされた分、予想に反して大きかった。彼はゆっくりと点火し、煙を吸い込んだ。しばらく、ライターの火を消さずに見つめていた。

火の向こうには月もなく、近づいたはずの夜明けも遠い。いっそう暗くなったような気さえする。

 バスはない。音もない。

 男は呆れたように煙を吐く。いっさいが止んでいた。港も船もありはしない。だが、きっとこの先に海がある。それだけは信じることができる。それはたった今も凪ぎ、近く自分が漂うはずのものだ。