本牧読書日記。中野翠「この世は落語」(ちくま文庫)。

斎藤美奈子と中野翠。共に才女・才筆だが僕は時として二人を混同してしまう。

今回初めて中野翠を読んで斎藤とははっきりと違うし、改めてその才能を愛した。

快い軽妙さなのである。その上、世の中の「酸い・甘い」を心得ている。

きっと出版社の中年男性編集者とも意気投合できるタイプだろう。一例を挙げてみる。

防衛問題のTV座談会である女性論客が「私は殺すより殺されるがわでありたいと思っています」と発言したのを見てp.214「これが十五歳の少女なら、あるいは福島瑞穂先生なら、私は今さら驚かない。苦笑するだけだが、レッキとした大人で精神科医もしている人だったからあっけにとられたのだ」。

この数行だけで僕は著者が「こっち側の人・大人」であることが判かったのである。

二十年来、落語のCDやDVDを聴きながら就寝するという落語愛好者の著者。

本書は「明烏」から「三軒長屋」まで五十数話の落語噺についてのエッセイ本。

僕も子供の頃のラジオ落語(同年代の男性は殆どが同様だろう)から親しんできたが、落語に特別な知識を持っている訳ではない。だから演目だけをみても大方はどういう話かすぐには分からなかった。

でもあらすじを読んでみると殆どは知った噺であった。

そうした噺を十話ほど著者の文章を借りて簡単に書いてみよう。

①「締め込み」。

コソ泥の噺だ。夫婦住まいの長屋に入った空巣泥棒がタンスから衣類を取り出して大きな風呂敷包みにし、サァ逃げようとした所に主人が帰って来る。空巣はあわてて床下に隠れる。風呂敷包みを見た主人はてっきり妻が間男をしていてこれから二人で駆け落ちと誤解。帰ってきた妻と盛大な夫婦ゲンカ。隠れた泥棒には煮えたぎったヤカンまで飛んでくる。たまりかねた泥棒は飛び出して二人を仲裁する噺。夫婦は泥棒に感謝して遂には二人のなれ初めのノロケ話までする。ほんのりしたオマケまでついているのがこの落語の良さだろう。「穴どろ」など他の泥棒噺にも悪賢いのは一人も出てこない。

②「二階ぞめき」。

吉原に行って登楼する訳でもなく「ぞめく(浮かれ歩く)」のが好きという若旦那。心配する親に番頭が入れ知恵。「お店の二階を吉原の通りに仕立ててみたらどうか？」。「煙草好きに禁煙させるためにハッカパイプをくわえさせるのと同じ」アイディアである。若旦那は二階に吉原ができたと聞いて早速に上がってみて大満足。「ひやかし用」の古渡り唐桟(とうざん)の着物に着替え「ちょいと容姿(ようす)のいい兄(あに)さん、登楼って(あがって)よ」と一人芝居に浸りきる。「二階に吉原」と想像するだけでも著者の表現を借りれば「シュールな奇観」だ。

③「湯屋番」。

これは何となく察しがついた。主人公は居候。落語定番の道楽息子。親から頼まれて義理で断れない亭主はいつも細君から文句を言われて弱っている。往々にして「四角い座敷を丸く掃く」図々しいのも多い。圓生のマクラに「子供の頃近所に「イソちゃん」と呼ばれる若者がいててっきり名前かと思っていたら「居候のイソちゃんだった」」とか「天敵・居候先の妻がゴハンをよそう時にはゴハンの量をケチって絶妙のテクニック「そぎめし」「コキめし」「釣り天井めし」……」とマクラだけで爆笑だったという。この居候が、今回は憧れだった銭湯の番台に座り小唄の美人師匠とねんごろになる等の妄想にふける噺だ。妄想の数々は高座の師匠の自由自在、傑作の連続だっただろう。

④「柳田格之進」。

正直・硬骨・曲がった事が大嫌い・名誉を傷つけられれば死をも厭わない武士の噺。武士のかがみだがそれが災いして今は浪人。19の美しい娘と二人の貧しい長屋暮らし。ある裕福な商人と碁友達になり商人宅で碁を打って帰宅後、部屋の50両がなくなっていた。疑った番頭が格之進を訪ねて彼の尊厳を傷つける事になる。疑われただけでも心外千万。格之進は「その50両、拙者が出そう。あす昼過ぎに来なさい。きちっと揃えておこう」と番頭を帰す。娘の絹は父親が自害するつもりであることを見抜く。そして50両のために吉原に身を売ることを提案する。結局は商人と番頭との主従愛を中心にハッピーエンドとなる。頑固で世慣れない武士が登場してひと騒ぎを起こす噺は他にもたくさんある。

⑤「百年目」。

長年の奉公が認められて大旦那から商売一切を任される番頭は絶大な権力を握る実力者である。今日も今日とてひとしきりガミガミと小言をならべた後「ちょっと番町のお屋敷の方を回ってきますから」と外出する。ところが彼が向かったのは駄菓子屋の二階を借りた隠れ家。すっかり着替えて向かう先は柳橋。芸者衆やたいこもちを引き連れて舟遊び。果ては土手に上がって鬼ごっこ。キャアキャア逃げ回る芸者を追いかけて遊ぶ場面に出くわしたのが外出中の大旦那。誤って大旦那をつかまえて目隠しをとった番頭はビックリ。出てきたセリフは「はっ、どうも……お久しゅうございます」。「百年目」である。でも話はそれだけでは終わらない。やはり主従の信頼によるハッピーエンドとなる。

⑥「愛宕山」。

たいこもちの噺である。舞台は珍しく京都。お詣りとちょっとした登山で親しまれた「愛宕山」。京都に旅行する客に引き連れられて芸者と共にお供するのはたいこもち・一八。「土器(かわらけ)投げ」のかわらけの代わりに小判30枚を谷底に投げる客の酔狂。その極みは「谷底に降りて小判を集めたら全部お前のものだ」と一八にけしかける悪趣向だ。欲に誘われて艱難辛苦谷底に降り全部の小判を拾い集めた一八。サテ、帰り方は？遥か上からは「里への遠回りの道には狼がいて食われてしまうぞ～」の声。必死の一八。周りに生えている竹林の竹の反発力を利用してパチンコの玉のように弾かれ元の場所にチャッカリ戻った。無事戻ったが、集めた小判は谷底に忘れてきた噺。これも「シュール感」アリだ。

⑦「真田小僧」。

こまっしゃくれた子供の噺。道楽者の亭主と別れた母親と二人暮らしの「金坊」。改心してすっかり立ち直った父親は独り身のままでひそかに金坊を誘い出して母親の様子を聞き出す。金坊には好機到来。思わせ振りな話で父親から飲食や小遣いをせしめる。例えば母親がアンマを呼ぶ説明では「キザに白い服着て」「世間体をはばかって色のついたメガネをかけ」「気取りやがってステッキ」をついた男がやってきた。「おっかさんは嬉しそうに手を取ってその男を家の中に引っ張りあげ」「障子をピタッと閉めた」「その瞬間部屋の中をひょいと見たらね、布団が敷いてあるんだよ」……父親はビックリ。すかさず金坊「おとっつぁん、障子あけたい？」父親は焦って「あけたい、あけたい」。すかさず金坊「これ開けるのに五銭かかる」とまんまと五銭せしめる。……復縁のハッピーエンドになるのは知っているが何故「真田小僧」なのだろうか？講談の「真田三代記」に由来するとは初めて知った。

⑧「化物使い」。

「化物屋敷」の噺。主人公は御家人あがりのご隠居。人使いが荒くて奉公人が居つかない。珍しく三年間続いた働き者の「杢助(もくすけ)」も主人が引っ越す先が化物が出ると噂の古くて広い家なので暇を申し出て去ってしまう。ご隠居の引っ越し先・噂通りの「化物屋敷」で次々と現れる化物達。でも一つ目小僧、大入道と、荒い使われ方に降参して姿を消す。最後に現れたのが「のっぺらぼう」の女。隠居は「なまじ目鼻がついてんで苦労してる女ｧ、いくらもいる」と気に入って使うが女も遂に姿を消してしまう。オチはそれらが全て大狸の仕業と分かり、つかまった狸が涙ながらにションボリと「こう化物使いが荒くちゃあとても辛抱なりかねます。お暇ｧ頂きたいんでござんす」。

最後の二話は題名も内容も僕は知らなかった噺。著者は名人芸を偲んで書いている。

⑨「馬のす」。

釣りに出かけようとした男が釣糸が弱っているのに気づく。そばに馬がいたのでシッポの毛を一本抜いて糸の代りにしようとする。それを見た友人の「カッちゃん」は驚いた声で言う。「以前に人から教えてもらったんだ。馬の毛を抜くとタタリがありますよと」。男はおびえる。どんな悪い事があるのか知りたくてたまらない。カッちゃんは言う「竹馬の友だからね、お前には話をするんだけどね、俺だってタダで教わった訳でない」。知りたくてたまらない男は酒と料理でもてなす。カッちゃんは上機嫌で関係のない世間話ばかりで肝心の話は出てこない。そして飲み食いが終わったところで「馬のシッポの毛を抜くとね…」男は息を呑んで「ウン」、カッちゃんは言う「馬が痛がるんだよ」。……こういうのを何「オチ」と言うのだろうか。本書ではこの他愛なく短い噺で客を魅了する文楽の至芸をたたえる。

それにしても「馬のす」とは何だろう？

⑩「宮戸川」。

ほんのりした噺。日本橋小網町の質屋の息子・半七は将棋が大好き。今夜も将棋に夢中になって帰宅が遅くなり怒った親から閉め出しをくってしまう。一方近所の家の娘・お花も歌ガルタに夢中になって閉め出されていた。半七はいつものように霊岸島のおじさんの家に泊めて貰おうとする。それを知ったお花は私も一緒にとついて来る。この霊岸島のおじさんというのが色っぽい話が大好きで早のみこみの過ぎる男。女っ気のない甥の半七をジレッタく思っていたところに今夜は女連れだと知って大喜び。勝手に気を利かせて二人を一つの部屋に泊め一つのフトンに寝かせてしまう。半七もお花も戸惑うのだが……というのが前半で志ん生はそこまででで噺を切っているという。そこでの老夫婦の会話が絶妙なのだそうだ。著者は前半だけで一席、それでも客を喜ばす志ん生の芸を絶讚している。

そしてp.174「宮戸川とは三社権現の宮戸の前を流れる川ということで、隅田川の待乳山あたりから駒形あたりを指して言ったという。昔の江戸っ子だったら宮戸川というだけで隅田川のあのあたりとピンときたのだろう。そう言えば昔の浅草には歌舞伎の宮戸座というのがあって、沢村国太郎(長門裕之、津川雅彦の父)・沢村貞子・加藤大介の父親はそこの座付き作者だったという話だ」。

このほんのりした色気のある落語と「宮戸川」を説明する著者(それが「大人」の女性であることも含めて)、全てが実に快い(心好いと書きたい)のである。僕にとってそうした本であった。

本書ブログはここだけで終わらせたくないので、もう少し書きためて来週にも続篇を掲載したいと思います。