本牧読書日記。牧原出「田中耕太郎」・闘う司法の確立者、世界法の探求者 (中公新書)。

「現在の最高裁長官は誰？」と聞かれて答えられる人は少数であろう。僕も知らない。

しかし戦後1950年からの10年間その職に就いた田中耕太郎(1890～1974年)の名は、ある程度の年齢以上の人だったら記憶しているに違いない。

それは恐らく松川事件、砂川事件など重要判決を主導した「反動裁判官」としての記憶である。

しかし本書を読んでみると彼についてのイメージは一変する。

戦前は滝川事件、天皇機関説事件、平賀粛学と次々に続く嵐の中で大学自治を守るべく奮闘し、戦後は東大教授から初代文部大臣。教育基本法を制定した。その後は参議院議員→最高裁長官→国際司法裁判所判事。文字通り「戦後日本」の骨格を作り上げた第一人者である。

反共産主義思想の持ち主として有名だが、同時に「復古主義・逆コース」を排し新憲法を強く支持した。即ち左・右両端のイデオロギーには断固たる態度を保持したのである。

戦後80年近くの長い歴史を振り返ってみるとその当座・当座には見えなかった「日本のあるべき姿」が見えてくる。田中はその「あるべき日本」の基準を作り上げた一人であったといえるだろう。

文相の後は参議院議員。良識の府らしい「緑風会」設立の主要役割を担った。

そして最高裁長官である。

彼は「学界、裁判所」という「象牙の塔」に籠りきる人間ではなかった。積極的に世間との接触を図り発言も多く、物議を醸し出した。但し物議だけで後世の記憶に残るのはまことに不幸なことである。

例えば「裁判への雑音」発言。これは発言全体の論旨を無視してごく一部の「雑音」の言葉尻だけを切り取った(今も同様に多発する)煽動記事であった。本書で初めて真実を知った。

田中の最大功績はまだ混沌とした戦後司法界にあって「司法権」を確立したこと。

反共産主義も相手が革命暴力主義の日本共産党だったから断固とした態度を貫いたのであって、党が平和路線になってからはその全体主義体質に警戒は怠らなかったにしても、そして事実に即した判決自体は変わらなかったにしても、細部での対応はかなり違ったものになっていった。

本書P231「裁判は一方である瞬間に政治状況と接点を持ちつつも、他方でそこからの影響を遮断し法廷での審理を続ける。この二面性の中で振り子のように揺れつつ、独立の確保に努めていく。田中は司法権の独立を確保するため、長官として可能なあらゆる措置を一方で講じ、他方で「世間の雑音」と戦い、憲法とは相容れないとして共産主義と闘い、保守的な内閣とは協調し、復古主義を批判した。そのため、判決の中ではギリギリの政治的判断は控え、違憲判決を出して内閣と対抗することはなかった。田中は日本国憲法の普遍的な価値を強力に擁護し、統治機構関連の条文などでの改正を可能と認めつつも、当時の保守政党が強力に主張した全面的な憲法改正論には与(くみ)しなかった。田中が模索した政治がうねる時代の司法権の均衡点は、こうした振る舞いの積み重ねの中にあった」。

田中は東大法学部の銀時計組である。同時に若くして真摯なクリスチャン(師とした内村鑑三から離れてカソリックとなる)であり、トルストイやロマン・ロランに夢中になり(白樺派に傾倒した芸術愛好家達と交流)、古典音楽では当時珍しかったレコード・コンサートを主催するほど熱中した。ベートーベンと本格的に出会い、ピアノ演奏をたしなむ。

東大では早くから英才として嘱目され、30歳前後の3年間を責務のない欧州留学という(本書では「グランド・ツアー」と形容)今では考えられない厚遇に浴した。海外では多くの経験と知己を得た。

本書サブタイトルは「世界法の探求者」である。

「世界法」「自然法」「カソリック」と並べてみると「普遍」という共通項が見えてくる。

田中の胸中には常にこの「普遍」の二文字があったのではないだろうか？

いつの時代にも、どのように世の中が激変しても、我々が依拠しなければならない鉄則としての「普遍」である。人間誰しも自分なりの「普遍」を有する。「人間理性」であったり「愛・優しさ」とか「連帯・絆」などは多くの人々が挙げる「普遍」であろう。

田中の場合は法学上の「世界法」や信仰上の「カソリック」に具現化したのだろうけれど(例えばトマス・アクィナスの「共通善」に「公共の福祉」を見出だしてそこに愛と正義の支配があると主張した)、もうひとつ重要なのは「独立・確固たる信念」にあるように僕には思えた。

東大時代は民法から商法の「独立」。軍国主義の嵐からは「大学の自治独立」即ち前述の諸事件における抵抗である。但しそれは必ずしも被害者と行を共にすることではない。スッキリするだろうけれどそれだけで終わってしまう。しぶとく「妥協」で何かを残す形といえばよいだろうか。

実際に「敗戦」という時代の大転換で田中耕太郎は大きく開花した。

彼自身は不変なのだろうけれど、周りが激変したのだ。だから「反動」と謗(そし)られても司法の独立と判決姿勢は変えないのだ。一部政治家の憲法改変、教育勅語の復活には決然たる態度を堅持する。

付和雷同の「雑音」には耳を傾けない。それは戦後最高の頑固親父・吉田茂に似た姿かも知れない。両者共に歴史の星霜を経てその人物評価が定まった。本書はその記録でもある。

田中は名門の生まれではないが幼少より群を抜く秀才であった。一高・東大と、自然に優秀者グループを形成しその中心になっていく。学界のみならずキリスト教や教養・趣味を通じた交際。僕の知る著名人だけでも南原繁など列挙しきれない。一方で彼が「妖精」と呼ぶ女性に想いが叶わず、海外留学帰国後も再発したが結局彼女の結婚で諦めたとの秘話のロマンティストでもあった。

田中の結婚相手は東大教授松本丞治(新憲法私案作成で有名)の長女・峰子。田中の死後修道院に入るようなカソリック信者であり、母方の叔父は小泉信三。公職者としてのみならず小泉を通して天皇家と接する機会もあった(夫妻は国際司法裁判所時代に単独でローマ法皇接見という異例の厚遇も受けている)。

戦中に話を戻して、45年1月西田幾多郎の元に集まったのが敗戦後を見越した「三年会」その後改名して「同心会」。メンバーは田中を含め安倍能成、志賀直哉、武者小路実篤、和辻哲郎、山本有三、谷川徹三、石橋湛山、小泉信三、津田左右吉、松本重治、横田喜三郎……。こう挙げればその思想傾向はわかるだろう。戦後の「革命」ではなく戦前日本の「改革」としての「戦後日本」である。田中も当初は同調した考え方であったが、実際に文部大臣に就任してみれば、占領政策にも影響されて「革命」と「改革」の中間的政策を推進した。最高裁に移ってもその延長上にある。

著者が重視するのは「教育基本法」に盛られた思想。占領軍方針があったとはいえこれは新憲法と並ぶ「革命」であろう(僕も経済史上の「農地改革」「財閥解体」に匹敵する「革命」だと思う)。

なお、田中は当時反対の声が高かった「尺貫」を廃止して「メートル法」を定めた。実務上便利な「世界基準」である。これは些細な法改正のように見えるが僕には結構重大なことなので、次の「2月暦絵・徒然雑記」で別にブログ掲載と致したい。

最高裁退官後はハーグの国際司法裁判所判事を9年間務めた。ここでの田中は南アフリカ・アパルトヘイトに違憲の判決をしている。しかし現在なら当然のこの判決は最終多数議決では欧州勢の抵抗であやふやな形で終わってしまった。アフリカ各国を始め猛烈な反感・ボイコットで国際司法裁判所の機能が一時停止、引いては国連の意義が急速な低下をきたした契機になった判決であった。

そして退任・帰国の4年後、田中は功なり名を遂げた一生を静かに終えたのである。

僕はここで時代を越えた「田中礼讃」をしている積もりはない。

どんな優秀人物でも「時代の子」である。田中は「不変の普遍性」を求めたとしても、やはり「時代の子」。あの時代だからあの自己実現を完成させた。そのままが現在に通ずる訳ではない。例えば砂川事件審議中、一方の当事者である米大使と密かに会談したことが最近報じられている。

彼は年代的に僕の祖父の代の人である。しかし父の代だったらその時代の、そして僕と同世代だったらこの時代の、各々に適応した実現を図ったことだろう。

著者は67年生まれ。東大・法卒、東大教授(行政法・政治史)。オーラル・ヒストリーも何冊か著書あり。実によく調査し(だからこの小文でもカッコ書きを多用せざるを得なかった)、歴史上の「田中耕太郎」を活写している。書評の小さなコラムを見て選書したものだが明らかに「新書水準」を越えた出色の著作だと思う。僕は実に誤解していた人物の真の姿をここに知ることが出来た。

これは決して「時代錯誤」ではない。