(訂正)前稿「遊牧の人類史」の「ギョベクリ・テペ遺跡」は採集・狩猟民ではなく、既に権力構造を形成していた現地トルコの遊牧民が主体の宗教機構ではなかったかと気づいたので訂正します。

本牧読書日記。佐藤夏生「スタール夫人」(清水書院)。

スタール夫人、僕としては初めて知るタイプの人物である。

かつてのフランスの有名なサロン主宰者として名前だけは知っていた。しかし本書で破格ともいえるその生涯を知るに及んで大きな戸惑いを感じた。それは読了後の現在も残る。

生きたのは1766～1817年(50歳)。フランス革命直前の財務総監ネッケル(銀行家として財を成した)を父親、サロンの花形女性を母としてパリに生まれた。

プロテスタント・カルヴァン派家系のスイス人一家。早くからサロン文化の中で育った。

最初に接したのが啓蒙思想。「理性」と「人間進歩」の思想とそこから派生する「自由」の信条は彼女の生涯を貫く。本書p.102「フランス人と世界を秩序と徳へと導いていかねばならない。だがそこに到達するためには、秩序と徳とが真の自由に結びついていることを忘れてはならない。啓蒙と理性の光の進歩に逆らった時代錯誤の闘いに消耗すべきでないと思わなくてはならない」とある通りである。

20歳で17歳年上のスウェーデン大使・スタール男爵と結婚。

しかしそれは「大使夫人」のステイタスを得る為だけの「個人的政略結婚」みたいなもの。

不義の子を何人も宿す奔放な私生活をその死まで続けた。

彼女の著作は政治思想分野と文学とに分かれる。

時代はフランス革命→ジャコバン派の恐怖政治→総裁政府→ナポレオン時代。世界史で最重要な時期である。彼女自身激動の中に翻弄される。特にナポレオンとは決定的に対立した。

政治思想は父親の影響で英国型立憲君主制から始まり次第に共和主義に転向、晩年は王政へと傾いていく(但し元々のサロンでの立憲王政・上層階級との共鳴が常に伴っていたように思える)。

こうした思想の遍歴について著者は「激動の真っ只中にいる明日をも知れぬ当事者と、歴史の結果を知る後世人とは全く違う」という。その通り。僕流の言葉で言えば「後だしジャンケンのやましさ、歴史を考える時のディレンマ」である。

スタール夫人の「自由の信条」即ち法の下の平等と、思想・信条・身柄・表現など個人の自由は、出版・言論の自由を認めないナポレオンと、彼の女性蔑視も相まって当初から対決する。

彼女は革命動乱期をパリ、父母のレマン湖畔・コペの館、英国と居を移し、サロンと執筆の活動を続けていたが、遂にナポレオンの逆鱗に触れてパリ滞在禁止、次いで国外追放処分となる。

折りあらば投獄の機会を探る権力の眼から身を守る国外の旅。ナポレオン失脚迄の「追放の10年」である。彼女は父親の財力もあって、それに耐え抜いた。

ドイツ、イタリア、ウィーン、ドイツからコペに戻り、再びウィーンからオーストリア縦断、モスコワ(ナポレオン軍のモスコワ攻略・敗退時と紙一重の差)、ペテルブルグ、ストックホルムからロンドンへと逃れた。当時の馬車旅の過酷さは想像できるし、仏軍が欧州各国と戦闘中の敵中突破の道である。旅中に出産したり息子の決闘死の報に接したりと、多くの苦難に満ちた国外追放の身であった。

やっとパリに戻ったのは47歳、その死までは3年を残すのみである。

本書は人生ドラマ記ではない。「人と思想」論である。

大半は「スタール全集」に収められた多著についての記述。

政治論ではスタール夫人自らの体験からの「フランス革命考察」や「追放十年」について。

文学ではドイツロマン主義の紹介・導入(「ドイツ論」)や代表作「デルフィーヌ」、「コリーヌ」、戯曲「サッフォー」の創作など。宗教論や神秘主義、古典詩とロマンティック詩などと、著書の主目的はこの分野にあると推察されるが僕の知識と関心が薄いので、ここでは本書で感じたスタール夫人の「汎ヨーロッパ性」について触れてみたい。

スタール夫人はコルシカ生まれのナポレオンを馬鹿にし、折角のフランス革命をメチャメチャにした下層階級に軽蔑と反感を有する純粋フランス文化の実現者である。

しかし出身はスイス・ロマンド地域。しかも人生の最盛期をかつてのフランク王国領内(仏・独・伊)のみならず露、北欧、英国まで足を延ばして逆境の旅で思索と哲学を鍛え抜いた。

文学でも南より北方系を評価したほどである(もっとも自分の創作舞台はイタリア)。

仏文化出身であっても彼女の関心と思索の及ぶ範囲は汎ヨーロッパ。それを強く感じた。

著者も「はじめに」でEU憲法批准の国民投票が実施されるに当たって、当時の仏・シラク大統領の国民への「呼びかけ」から筆を起こしている。

スタール夫人は女性の能力と権利拡大の先駆者であると同時に、欧州統合の萌芽的存在であったのだろうと僕は想像する。広範囲エリア統治のための必須第一条件「憲法」＝基準・秩序への着眼もしっかりと備えている。そうした認識は単に「文学者」を越えた普遍の範疇の事柄であろう。

彼女が改めて見直されている側面にはジェンダー平等などと共にそんな要因があると思う。

僕の「戸惑い」のもとは、スタール夫人の性格的なものなのかよく分からないが、余りに不道徳で常軌を逸したその私生活である。

人物を評価するのに、公的部分に私的部分をどの程度関与させるかはケースバイケースの難しい問題である。しかしそれが極端な場合は私的部分も評価対象にせざるを得ない。

思い起こすのは同じジュネーブ人・ジャン・ジャック・ルソーである。著作「告白」によれば無教養の妻との間に多くの子供をもうけ、その幾人かは孤児院に放棄したという。

何か同郷のスタール夫人と合い通ずる。彼女の場合は幾多の異性との深い関係。相手の多くは夫人父親の遺産からの借金を重ねている。そんな私生活なのである。パトロンの女性版(ペイトロネス)と呼ぶべきか、サロン主宰が高じて丁度そんな心理と存在になったのだろう。

スキャンダラスな面は後世必ず残り烙印を押される。それはやむを得ない。我々は烙印は烙印として、本来的な歴史的役割はどうであったかしっかりと認識する必要がある。

とはいえ、本書には最晩年の夫人の醜い姿の描写がある。

またその法典などを例示してナポレオンの歴史上の正当な評価もしている。

それらの記述に著者自身の夫人に対する違和感と、歴史を見る冷静な視線とを感じる。

著者は40年生まれ。東大・仏語修士からフランス政府給付留学、神奈川大学名誉教授。そして実は僕の中学同級生(旧姓細川さん)。と言っても在学中会話した記憶はないし卒業後もその経歴は全く知りませんでした。偶々クラス会幹事のG君から本書のことを知り読んでみたものです。

当時から約70年。だからこの本は浦島太郎が開けたビックリ玉手箱のようなものです。

昨年のフランス関連読書(ブログ記載)は2月「両岸の旅人」と11月「排除と抵抗の郊外」の2冊。

その内「排除と抵抗の郊外」で触れているのが中学同級生・宮島喬君。

2クラス100名の同級生の中で佐藤、宮島の両君がフランスの各々文学と社会学の研究者・大学教授になっているのですから、これは相当に高い比率でしょう。

フランスに縁の薄い僕でも長い人生では読書を通したこんな出会いがあるのですね。

フランスは日本人のみならず世界中から憧れの国。文化と芸術の国。花の都パリ。

僕は今後の日本の在り方のひとつとして、アジア人の憧れの意味での「アジアのフランス」への方向性があると思っています。「安全で信頼性が高く清潔で便利な生活文化の国のイメージ」。インバウンドも復活してきた今後、リピーターによる好感度こそ大事にしたいものです。海外からの労働移住者の課題も先進国の失敗事例を少しでも回避して何とかマイルドに収めて貰いたいと願っています。

反対にサルコジ大統領(彼はハンガリー系ではあるが)でイメージされるようなフランス人の過度の自己顕示やいい加減さは日本人が絶対に真似してはならない。

僕はそんな風にフランスをとらえています。