本牧読書日記。井上篤夫「フルベッキ伝」(図書刊行会)。

「フルベッキ」の名を聞いて「どこかで聞いたような…」位の人は多いと思う。

僕も同様の認識だけであった。これ程真摯で立派な人物とは本書で初めて知った。

名前はVerbeckである。1830年オランダのキリスト教モラヴィア派の家系に生まれた。詩や音楽好きの少年期を経てユトレヒトの工業学校で機械工学を学ぶ。22歳で兄弟が移住していたアメリカに渡り外国伝導の志を固め神学校に入学・卒業。米国オランダ改革教会の宣教師として新婚の妻と共に来日、長崎に居を構えたのが59年(安政6年)29歳の時である。そこから新設「開成学校(東大の前身)」の主要スタッフとして上京するまでの10年間、長崎で築き上げた人脈が普通ではない。

当時の日本の状況を的確に把握し、驚異的に早期に身に付けた日本語を駆使して主として佐賀藩・開明的な藩主鍋島父子の信頼を得る。そして後の明治元勲達と深く交わった。最初に英語を学ぶために集まった若者が大山巌、大隈重信、副島種臣達である。

宣教目的の来日であるからそうした活動もするがまだ実質禁教時代。若者達が求めるのは開明的な思想でありその要望は強い。学問上も蘭語から英語に移っていく時代である。フルベッキは英・蘭は当然、独・仏語も堪能。長崎、佐賀におけるオールマイティな貴重な人物となっていくのである。大隈が立ち上げた佐賀藩・洋学校の教師となりフルベッキの令名は他藩にも伝わる。維新直前には加賀、薩摩、土佐各藩から招聘状が到来する当代随一の有名外国人となる。横井小楠の甥兄弟の米国留学など米国との繋がりの仲介にも尽力した。各藩から武器購入の口利きを頼まれた際には扱う外国人商人を紹介しても一線を越えることは決してない。彼は破格の高給を得た開成学校時代を特別な例外として、終生金銭的に恵まれることは決してなかった。後に一時的に米国に帰国しても蓄えがないため困窮して短期に切り上げ再来日する程であった。宗教家とはいえ身辺は実にきれいな人物であった。接する日本人の信頼も一段と深まったことだろう。

こうして僅か10年間でフルベッキの名は全国的に確立した。

尊皇攘夷、外国人殺傷、薩英・下関と戦争で日本中が揺れ動いた激動のこの期間、中心地の江戸・横浜ではなく比較的落ち着いていて「異人アレルギー」のない長崎を本拠地にしたこともフルベッキに幸いしたと本書にある。確かにそうであろう。日本語によるコミュニケーション能力も抜群だ。英国大使館員として日本語力を活用したアーネスト・サトウとはまた違った立場で多大な信頼を得たのであろう。

そして明治の新時代。近代教育の第一歩となるべき開成学校設立に当たって、木戸孝允が大久保利通に宛てた書簡「長崎逗留の米国人フルベキ、博識有徳の者にて皇国の情態にも通じ、とりわけ有用だと聞き及んでいる」の通り、中心となる教師の地位が彼に提供された。

「改正増補和訳英辞典」出版を最後に長崎を離れ上京したのは69年(明2)39歳の時である。

単なる「お雇い外国人」の概念を越えた期待が込められていたし、フルベッキもそれに応える実績を数々残した。上京してからの人脈は明治政府主要者(例えば森有礼)へと拡がり、早速に大隈からは欧米使節派遣に関するブリーフ・スケッチを求められる。

明治初期の一大事業・不平等条約改定を目的としての使節団派遣は早くから計画されていたが、紆余曲折を経て岩倉使節団に実現した。そこでのフルベッキの役割は多大なものであった。

我々は超一級の資料・久米邦武「特命全権大使米欧回覧実記」でその全貌を知っている。僕も2回の挫折の後にやっと完読してブログにもしばしば言及した。この使節団の見聞結果が憲法を始め明治政府のプロシヤを手本とする基本方針となり、かつ実行された。その後の日本の針路として決定的な考え方となったのである。但しそれがフルベッキの思想と合致したか否か、本書からは暗にフルベッキの意図とは反しているようにも読み取れるが、明瞭にはわからない。

73年(明6)に大学南校教頭を解任された。日本の水準も上がってきて、彼のようにジェネラリスト的役割の外国人教師よりもスペシャリストの人材が求められるようになってきたからである。

この時彼は(恐らく過労による)神経衰弱のため6ヶ月の休養休暇でロンドン(家族在住)や故郷オランダに過ごしていた。これだけの重責を全うするために誠心誠意・全力を打ち込んだのだ。

日本に戻ったフルベッキは高橋是清(書生としてフルベッキ家に居住していた)の世話で駿河台鈴木町に居を定めて、日本での宣教活動に専念する。彼の後半生である。

ヘボンを始めとする在留外国人社会と親しく交わり、共同で聖書の日本語翻訳(彼は特に旧約聖書の翻訳に貢献した)を完成させた。

宣教活動は東京はもちろん信州、群馬など熱心に活動し、熟達した日本語での説教・講演は大人気、満堂の聴衆に大きな感銘を与えたとのことである。

教育活動では明治学院創立のための最初の理事員に選ばれ神学部教授に就任した。

彼の死は98年(明31)68歳である。

生涯どれだけ多くの主要人物と知り合ったことだろうか。明治天皇にも拝謁、勲三等叙勲の栄誉も得ている。近代日本の教育・政治・外交・宗教と、各方面で礎を築いた一人としての役割を果たし終えた。

数多くの評伝の中の一節「恒星の静謐な輝きは流れ星の一瞬の閃光より素晴らしい。フルベッキのような宣教師の静かだが力強い生涯の前では、大衆や新聞の話題に応えるような人気者、提督・将軍の名声など取るに足らないものに思える。一般の人々には知られていなくとも目に見えないパン種のような重要な存在こそが日本のフルベッキなのだ」。フルベッキを一冊読んだだけで軽率な感想だが、この短文はフルベッキという人物を的確に表現しているように思う。日本に現れた外国人にありがちなケレン味、スタンドプレーが皆無。「誠実・信頼」をコミュニケーションの第一義とする日本人の好みにまさにピッタリ合った人物だったのだろう。それはこの地味な本を書評対象に選んだ保阪正康氏にも共通する性格のように思える。

僕は氏の書評を信頼して本書を読んでみた。期待通りの読後感を残してくれる本であった。

著者は数多くの評伝や翻訳を著す作家。多くの資料に当りフルベッキの子孫(全員在米)とも接している。「あとがき」によると「自らに与えられた仕事に真摯に向き合う彼の生き方に共感した多くの人々がフルベッキの元に集まった。フルベッキは他人に自分の意志を押し付けることを非常に嫌っていた。彼らが自主的に行動するよう個々人の権利を尊重した。たとえ宣教師であっても日本人にキリスト教を強要することはなかった」。この文章もフルベッキの人間性を正確に表現していると思う。