本牧読書日記。池澤夏樹「また会う日まで」(朝日新聞出版)。

朝日新聞連載小説だから非常に読みやすい。かつ重層的構造を成しているので読み終わって「小説らしい小説を読んだ」との充足感を覚える。

更に作中人物が皆一生懸命に真摯な生き方をしているのが爽やかな作品なのである。

主人公は1892年生まれの秋吉利雄。終戦時は海軍少将・「水路部」の最高幹部。一族は九州の信仰篤いキリスト教・英国国教「聖公会」信者たち。一族間で養子縁組、いとこ婚が多い。本人を始め勉学・向上心が強く、全員が真剣に「自分」に向き合いそれぞれの世界を生きていく。キリスト教を通して米国など海外の人から強い信頼を得ている者もいる。当時としては異例的に自立心溢れる女性が多い。

しかし同時に人間の決定的運命=「死」に直面する場面も多いのである。主人公・利雄はいとこ婚の妻・チヨや妹・トヨ、養子や実子の子供達との、結核や出産時の感染症などによる「死・別離」を幾度となく余儀なくされる。だいたい本書自体が敗戦3年後、職を失い窮状・失意の内に人生の幕を閉じようとする利雄自身の述懐の形式をとっているのである。

何回も出てくる讃美歌がある。「荒野をゆくときもあらし吹くときもゆくてをしめしてたえずみちびきませまた会う日までまた会う日まで神の守り汝が身を離れざれ」。

書名「また会う日まで」。そうだ、この世に生を受けた何びとも「また会う日までまた会う日まで」と冥界に旅立つ愛する人との別れを経験しない者はいない。そしていつの日か嘆き悲しむ人々を後にして「また会う日まで」と他の世界へと旅立つのである。そうした「決定的な別れ」が本書・重層構造の核をなしているから読む人に感銘を与えるのであろう。しかもこの話は絵空事ではない。恐らく80%は著者の大伯父の実録を基とした「ファミリー・ヒストリー」なのである。

主人公・利雄が想いを馳せるのは身内だけではない。海軍兵学校以来の親友・ひとりはミッドウェーで空母「飛龍」の艦長として沈みゆく艦と共に深海に眠り、他のひとりは戦後に真実の「海軍史」を書こうとして、ある勢力に暗殺された(これは恐らくフィクション)。そうした利雄が一生を託した「日本海軍」が舞台の物語である事がもうひとつの重要な重層構造なのである。本書の厚みが更に増す。

「日本海軍」といっても本人は戦闘に参加したことはない。

信仰に篤いけれど経済的に恵まれない家庭に育った利雄は優秀な成績で海軍兵学校へと進む。在学中及び任官後数年間は既定コースで海上訓練、海外巡航と「武人」としての生活を経験した。しかし「信仰者」と「武人」であることの矛盾から、志望したのは「水路部」。選ばれて東大・理学部に学び天文学者、それも実利的な海図や「天測暦」を作成する「水路部」へと生涯を投入することになる。

名称が「海軍水路部」ではなく単に「水路部」である如く、あらゆる海をいく人、空を飛ぶ人にとっての地図はまさしく命綱である。何の目印もない場所において頼りになるのは「天測」を基にした自分の「位置」。しかも天測した位置から常に動いているのだから曲面三角法で得た複雑な数値から即座に換算計算した数値を読み取る「暦」を得なければならない。あらゆる海面や空と正確な日時からそれを固定値として瞬時に獲得するのは、あるいはさせるのは人間叡知の極点のひとつであろう。イギリス海軍から幾世紀と築かれてきたこの叡知と実益。人工衛星もGPSもない時代に唯一頼りになるのはこうした「地図・暦と観測数値」なのである。ギリギリの「存在と時間(時刻)」なのである。

利雄はこの部所で着々と実績を重ねた。34年(昭9)南海・日本委任統治下・ローソップ島での「日食観測隊」責任者としての職務は公私共に彼の思い出に強く残る経験であった。最初の妻・チヨの突然死の悲嘆にくれながらも組織人としての彼は着実に多くの信頼を得て責任も職位も上昇していく。

満州事変、5.15、2.26、日中戦争と、戦争機運の高まる日本。それでも海軍には山本五十六、鈴木貫太郎、米内光政、井上成美と、日米国力差を知悉し何とか開戦を避けようとの「条約派」の将軍達も多く、本書にも登場する。しかしある日利雄は山本五十六に秘かに呼び出された。「ハワイ真珠湾の潮汐をどの程度正確に把握できるか？」との諮問である。停泊軍艦への抜群の効果が期待できる「特殊潜航艇」の為に、湾口防潜ネットの上部隙間を通過できるだけの潮位を知ることが絶対条件だからである。山本五十六が「半年位は暴れてみせよう」と「バクチ」を決意した頃だろう。

そしてその日時は直前に利雄に知らされ真珠湾の潮位は極秘の内に山本に回答された。

本書で初めて天皇の「開戦の詔書」を読んで今更ながらに僕は呆れた。

「東亜の安定を確保し世界の平和に寄与するのは、そして列国との交誼を篤くし万邦共栄の楽を偕(とも)にするのは日本帝国が常に国交の要義と為すところなり。今や不幸にして米英両国と戦端を開くに至るのはまことにやむを得ざるものあり」(大意)に始まり、以下中国とは折角汪兆銘政権とうまくいきそうなところ、重慶に残存する蒋介石政権は日本帝国の真意を理解せず米英の応援を得て態度を改めない。米英両国は残存政権を支援して平和の美名に隠れて東亜制覇の野望をたくましくしている。更に他国を誘って日本周辺において武備を増強して日本に挑戦し、平和的通商にあらゆる妨害を加え遂に経済断交を敢えてし、日本帝国の生存に重大なる脅威を加えている。何とか事態を平和の内に回復させようと隠忍久しきに渡ったが、相手は少しも譲ることなくいたずらに時局の解決を遷延せしめて、以て日本を屈従させようとしていると、「悪いのはみんなあなた」の論理である。この宣言でも「自衛上やむを得ず」であり、大陸侵略さえ日中戦争が長引いたのは相手方の理解不足と頑迷さであると非難している。

だが正当性の結論はどうであったか。事実と歴史が証明する通りである。現在の我々はこの宣言に呆れる。でも結果を知った上での「後だしジャンケン」のやましさも同時に感じる。当時に生きていたらどうだっただろうか？真珠湾戦果に「万歳」を叫んでいたかも知れない。きっとそうだろう。

今の僕らに出来ることは「歴史に学ぶ」事だけである。自民党右派の一部議員が時として口にする「評価は後代の歴史(家)が決めること」は、本人自身が全く「歴史に学んでいないこと」を告白・露呈させているのであって、国民がよもや惑わされてはならない。この事だけは断言できるのである。

話を本筋に戻すと、利雄は愛妻チヨを亡くして二年余、教会牧師の紹介で32歳独身・東京女子大出の才媛ヨ子(よね)と結ばれ子も生まれた。ヨ子はYWCAで米国でも活動経歴を持つ。戦後は失職した利雄に代わり米軍に職を得て家計を維持した。ヨ子は近代女性であり家庭も守るベターハーフであった。

戦争中の利雄は水路部最高幹部として、また周囲から尊敬される人格者として余人に替えがたい人材となるのだが、戦時後半は米軍空襲から組織と資料を守るための「疎開」に精力を傾けるのに精一杯の身となる。本人家族も水路部疎開地のひとつ岡山県・笠岡に避難して終戦を迎えることとなった。

戦後は戦争責任を弾劾されることはなかったが、本人の心中は推察するに余りある。直接戦闘に参加することはなかったにせよ、彼が貢献した業務は戦禍拡大に活用されたのだ。多くの人を救い、かつ多くの人々の死をも発生させてしまった。親しい仲間の多くがもう生きて故郷に戻ることはない。クリスチャンだけに一層の良心の呵責に悩んだことだろう。再就職の機会も得られず落胆は大きいが、それ以上にそうした精神の後遺症は大きかったに違いない。

元々の肺疾患もあって、死の床に伏した。まことに哀切に堪えない最期である。

僕は小説の評価は読者の心に余韻を残すか否かで決まると、確かトーマス・マン「魔の山」の時に書いた。本書はその余韻の深さで決定的に評価できる。それは重層構造のひとつ「クリスチャンであること」がおおいに関与している。本書の半分は利雄の公的人生、半分は私的人生で占められているが、全編を通して流れる底流は「クリスチャンであること」である。聖書の一節や祈りの言葉、引用の例が作中至るところに散りばめられている。九州の鎮西学院や長崎活水・関西のプール・東京の立教の各女学院、更に東京女子大と、各人が学んだ学校や疎開時に協力してくれた教育機関、全てミッション・スクールである。由縁の地・築地の聖路加病院も同様。そして何よりも信仰心篤い一族、慕った牧師夫妻と、キリスト教が本書登場人物にとっていかに大切であったか、我が身の如くに感じ取る事ができる。

キリスト教に興味はあるが結局は信仰に入れなかった自分でも感じるところは大きく深い。

最後に著名な著者・池澤夏樹について書きます。

池澤夏樹は、利雄の妹トヨの遺児・福永武彦の長男。つまり利雄は池澤の大伯父。

本書は池澤にとっても「ファミリーヒストリー」そのものなのです。

だから本書は78歳に至った池澤が渾身を込めて書き上げた「自分史」でもあり、もっと穿って見れば「遺書」の一部ではないかと思います。彼は「池澤夏樹個人編集・世界文学全集」など多著で数々の賞を受賞しています。でもきっとそれらとは別物の著書ではないかと想像しています。

僕には唯一読んだ彼の著書ですが、何か特別の気迫・気配を感じるのです。

というのは、僕も78歳から始めたこの読書ブログ。「具体的な」読者として自分の孫やその次の世代くらいを想定した「自分史・読書を通じて自らを語る」に自然と変質しているように思うからです。

別に表現すれば「遺書」でもあります。彼等はこの長ったらしくてつまらないブログを熱心に読むことはないでしょう。でも幾つかを拾い読みしてくれれば、僕はあの世で満足しています。

このブログは私の「また会う日まで」なのです。だから一層に想いがこもる読書でした。

「また逢う日まで」は何十年も前の尾崎紀世彦のヒット曲。彼のシャウト風の歌唱と共に好きな歌でした。

本書に触発されて次回「12月暦絵」からは中断していた「自分史」を再開する予定です。