本牧読書日記。川本三郎「ひとり遊びぞ我はまされる」(平凡社)。

なんとゆったりと心にしみ入るエセーでありましょうか。

一応「読書日記」としましたが、当稿も「徒然雑記」風に記したいと思います。

本書は月刊誌「東京人」に18年8月～21年12月に連載した「東京つれづれ日誌」の単行本。

「東京人」・「川本三郎」・「永井荷風」と書くと三題ばなしみたいですが、僕にはどうしても結び付く因縁があります。まだ現役の56歳の時、手もとのビジネス手帳に読んだ本のリストを書き留め始めたのが97年5月です。最初の本が川本三郎(以下川本)の「東京人」連載の単行本「荷風と東京」(新潮社)でした。「東京人」は当初季刊だったと思いますが、関係会社が関与した雑誌だったので社内勧奨もあり80年代の創刊から購読していました。僕は未だに荷風の小説を1冊も読んだことがありません。彼は「お坊ちゃん」でニューヨーク勤務からわがまま風にフランス遊学。帰国後は女性関係や風俗絡みの作品ばかり。むしろ嫌悪していました。だから強い動機があって選んだ訳ではなく偶々のタイミングだったのです。でもこの本や後に「断腸亭日乗・抄訳」を読んでその教養の深さ、江戸情緒の名残が溢れる文章に認識を一新しました。それについては川本の解説が何とも絶妙で、彼とこの第１冊目「荷風と東京」なくしては、その後26年間続く読書生活は随分と違ったペースになっていたと思われます。

その意味で忘れることのできない「三題噺」なのです。

川本は僕より3歳下の19年生まれ。同世代と言えます。10年程前に夫人を亡くし独り住まい。由緒ある寺社を訪ねて由縁の故人の墓参り(これを「掃苔」という)と、本書でも度々言及する荷風に著者自身が似てきた感があります。といっても忙しさは全然違う。執筆・講演・対談と依頼が多く、全国各地を更に台湾にまで飛び回っています。スケジュールを終わった帰路は興の赴くままに遠回り。ローカル鉄道の旅を楽しんで(相当の鉄道好き)「ひとり遊び」を味わう余裕。教養人(後で書こうと思いますが現代の「文人」の第一人者だと思います)で、知識・話題・記憶の豊富さは驚異的。それに決して「ベッタリ」ではない要所・要所の同行(好)者がいることも多い。馴染みの編集者の場合もあるし台湾の翻訳者の場合もあります。多くの人々に親しまれる人柄なのでしょう。この点では有名になった頃の司馬、清張の取材旅が地方の有名料亭の地元フルコース料理だとしたら、川本は街なかの飲み屋の絶品小料理でしょう。実際、旨かった記憶の元に再度同じ店ののれんをくぐることが多い。愛する街は例えば山形の寒河江、左沢(「さがえ」「あてらざわ」と正確に読める人は恐らく少数)など有名地ではない。偏屈な変人とは無縁の独特の慈味や柔らかな「深さ」が感じられる「大人」。「こうありたいな」と感じる人物です。

親交あった故人、ドイツ文学者・池内紀や学生時代の民主党仙石由人(恐らく学生運動仲間。彼にも民主党では珍しい「大人」の趣があった)を偲ぶ短文もベタベタしたところが微塵もない。「江戸っ子」の気風があるように感じます。実は狷介の人・荷風は好・嫌がはっきりしていただけで、根は江戸っ子だったらしい。知人宅の幼児をあやしていた時に粗相をされて、狼狽する親達をなだめて静かに処理したエピソードが紹介されています。荷風の2回目の結婚相手は日本舞踊家・有名な藤蔭静枝(後に静樹)。新橋芸者時代荷風と知り合い大正２年結婚したが彼の浮気もあって半年後置き手紙で家を出たという。ふたりは「以後独身を通す」と誓い合い守り通した。藤蔭は僕も名前と顔だけは知っている。文化功労者で日本舞踊界に大功績を残した。当然子供はいないが門人のみならず多くの関係者に慕われ立派な伝記や墓が残された。著者はその墓参りもしています。僕はこの話から藤蔭のみならず荷風も改めて見直しました。彼は人間の「運命」を見つめていた人との思いがするのです。

良寛の本歌は「世の中にまじらぬとにはあらねどもひとり遊びぞ我はまされる」です。

「世人と交わらない訳ではないけれど」と、ちゃんと交際する常識を弁えているのです。

その上での「ひとり遊び」。これも「こうありたいな」ですね。

「文人」の話をいたします。

僕が「荷風と東京」のあと愛読したのは大佛次郎(「天皇の世紀」)や萩原延寿(「遠い崖」など)、10年毎くらいに傑作を残した丸谷才一(「たった一人の反乱」など)、中村真一郎(「蠣崎波響の生涯」など)あるいは学者だけれど座談の名手だった丸山眞男(「講義録」など)……。今から思い起こすと「文人」風の著者の著作が多かったです。共通しているのは「博学」で「調査熱心」であること。決して汗臭くなく、それでいていい加減なことは絶対に書かない。

僕が川本の博学に驚いて連想したのがこうした系列に連なる「現代の文人」。先人達とはスケールが違うかも知れないけれど、同世代である親しみとそのセンスに共感を覚えるのです。

映画評論家である著者の一文が本書にあります。

「「Mr.ホームズ名探偵最後の事件」という映画で、イアン・マッケラン演じる93歳のシャーロック・ホームズは「孤独は知識で穴埋めする」と言っていたが、私の場合は「孤独はひとり遊びで穴埋めする」といえようか。映画も本も音楽も、そして旅も、すべて楽しいひとり遊びである」。

これは著者の本心であると同時に「仮装」でもあると思います。まだまだ「孤独は知識で穴埋め」しているはずです。いつまでも熱心に知識を吸収していかなければ「ひとり遊びを楽しむ」ことはできないでしょう。「孤独は知識で穴埋めする」僕もこのフレーズをできれば自分のものにしたい。そんな人生を最後の迎えが来るまでは貫きたい。そうした想いに強くとらわれました。

荷風の終焉の地は市川です。埼玉だったら浦和みたいな、界隈では随一の落ち着いた街。

僕は長年浦安に住んだので市川市内の真間、八幡辺りはよく行きました。ゴルフの時は6号線への近道として利用したり、市の職員選考の民間委員となったり。元々が漁村だった浦安とは風情が違うのです。だいぶ枯れたにしても松林があり、戦前は日本橋辺りの大商人の「おめかけさん」の住まいがが多かったと聞きました。妻も娘のピアノの先生が鬼越だったので馴染みの土地です。小学校低学年の娘はレッスン帰り先生宅近くの小公園ブランコを思い切り楽しんでストレス解消をしたそうです。中山の東山魁夷記念館は何回も行きました。静かな住宅地にある趣味のよい建物です。

それなのに市内3ヵ所を転居した荷風の旧宅跡は全く知りません。独特の風采でかつての風俗街を散策したり踊り子の楽屋を訪ねたりの晩年と、大金を残しての孤独死は有名な話です。

ここにも荷風の「哲学と運命」があったのでしょう。

こうした荷風に全力を傾注した川本三郎。学生・青春時代、映画評論、文筆活動と、大いに興味を覚えます。著作「マイ・バック・ページ」はきっと半生記だと思いますので是非読もうと思います。

大著はないけれど多著なので集積すれば立派な大著です。

彼は数年来台湾との接触が多く、幅広い交際や訪台旅行の話が数多く出てきます。

台湾は軍国日本が迷惑を及ぼした土地としては異例に親日家が多いとは知っています。その中にも蒋介石に反抗する「台湾独立派」がいて、その一人・王育徳の回想「「昭和」を生きた台湾青年」(草思社文庫)が紹介されています。この本も読んでみようとの動機は、もしかしたら丸谷才一「裏声で歌へ君が代」のモデルかも知れないと推測したからです。

その他、「小津映画」「市谷八幡」、目黒の「久米美術館」あるいは度々聴きにいくピアノ・コンサートなどここで触れたいことばかりで、当「徒然雑記」も話が尽きません。

最後にひとつだけエピソードを記して終わりといたします。

p.56「元日銀総裁の松下康雄さんが亡くなった。大学生のとき、松下さんの息子さんの家庭教師をしていた。太郎君という中学生で若くして逝った。松下さんは私が亡妻と結婚したとき仲人をしてくださった。公安事件で逮捕され、新聞社を追われた人間の仲人をよくぞと感謝している」。

松下康雄氏は確か日銀史に残る名総裁だったと思います。実に素晴らしい話です。

本当の人間と人間との関係に思想や経歴は致命的要因ではありません。

明治初期、幕府方負け組の会津藩の有為の青年男女が選ばれて米国留学組の中に組み込まれました。対立を終えての、あるいは対立中でも個人と個人の信頼があれば「ノーサイド」。スポーツマンシップと同様の健全な精神です。単なる「美談」に終わらない話が僕は大好きです。

本書でまた一冊、記憶に残る読書経験を得ました。