「隠れて祈れ」という言葉について。

「隠れて祈れ」という言葉を、私は善行を行うのは内面に基づくべきであり、他者からの評価、外面を強調してはならないという意味だと思っていたことがある。善行を意図して他者の面前で行うことは、自己顕示欲が動機の中に入り込み、好ましくないことだと解釈したことさえあった。

しかし、「良かれと思った何かをしている時、その『良いことをしている』という思いは、しばしば人の判断力を鈍らせる。人間が今まで起こしてきた多くの悪事は善意から生まれている。孤独な善行から生まれる福利は大きい。しかし、良かれと思うことが大きな過ちとなり、しかもそれは理性による抑制が突破されているために、より悪い結果となりやすい。誤った判断に陥ってしまった隠れた『良かれ』は次の危険性を持っている。第一に、誰が何故行っているのか分からないために、それを止めさせることが難しい。第二に、誤った判断に陥った『良かれ』と思った行為はその内に、その行為をしない人々への批判を含んでいる。それは実は、悪意を内に持ち他者を否定する行為である。第三に、それをそれをとめることができず、そしてまたとめても無視されることが多いため、そのを行う人の偏った思考を強固にし、自らの考える『あるべき』姿が実現しないことによる、社会への理不尽な憤りを蓄積させる。
これを避けるには、自らが良かれと思ったことは公衆の面前でそれを行い、それを誇示することだ、そして誤りについての批判を熟考し、従うことだ。他者の前で行うことで自己顕示欲が入り込むなら、それは行為を行う者の精神が弱いだけだ。隠れて行うのは自らの考えを否定されることに怯えているのだ。
外面の偏重も危険だが、しかし、隠れて行うことは、内面にとどまる祈りはともかく、大いに危険なことなのだ。」

中2のときこう暗に示すことを言われて、諭された。そして数日前の朝一番にまた同じようなことを暗に言うことを言われ諭された。私の精神面は中2かそれ以下で止まったままということか?