この前の記事に、外国為替や外国株式市場に投資され国境を越える資金は世界の総貿易額の数十倍、と書いたが誤りだった。

正しくは外国為替市場の取引だけで世界の貿易額の約100倍(東京法令出版、政治・経済資料2009、p295による)。ここではこのことから「貨幣が貨幣を買う投機的要素が為替レートに相当影響を与えている」とも書かれている。



この話に関して、新約聖書中の一節を思い出す。新約聖書の福音書の一つの中にはイエス(=キリストとはあえて書かない。キリスト教徒ではないから。)がエルサレムの神殿を訪れた際、その門前で商売をしていた商人達をかなり強く非難する場面があるそうだ。

一説には、この商人は両替商だったという。ユダヤ教は偶像崇拝を禁じているため、神殿に捧げ物をする場合、皇帝や王、神々の像が刻印されたローマや諸外国のコインから、無刻印のかつての王国時代のコイン等に両替する必要があった。これらのコインは希少だったため、参拝者に代わってコインを探してきて神殿の前で参拝者に売ることを生業とする者が現れた。

時代が下ると、それらのコインは残っているほとんどがこのプロセスを通じて神殿と両替商のもとに集まった。同時に両替商の寡占化も進展した。すると商人を中心にお金は次のように流れるようになった。

1.神殿に商品納入。旧コインを受け取る。
2.参拝者に旧コインを販売。新コインを購入。この際、旧コインは需要が大きいため差益がある。
3.新コインで市場や農村から商品を購入し神殿に納入。

他の取引より2の差益分収益が多い。商人達はこの収益で旧コインを買いだめした。ここで2でのコインの価格を上げる。通常の商品なら新規参入者がより安い価格で販売を始めるのだが、旧コインはほとんどを現在営業中の商人が所有しているから新規参入は難しい。しかも、通常商品なら需要が減少するのだが、ユダヤ教徒は戒律の義務により所得の一定割合を神殿に捧げる、つまり需要が減らない。

こうして旧コイン市場で高い寡占価格が形成され、神へのユダヤ教徒の捧げ物は両替商達を肥え太らせることとなった。この構造に気づいたイエスは上記の行動に出た、というのが聖書のこの箇所の一つの解釈である。



この構造は今日の為替市場にも当てはまらないだろうか。輸入原料や商品を買い、輸出用製品の生産販売に従事する限り、私達は自国通貨と外貨を交換するかその交換の影響を受ける。外国為替市場にはそれを生業とする多くの人々がいて、莫大な利益を得ている人もいる。

それは違うと反論する人もいるだろう。外国為替市場は売り手も買い手も多数いて、寡占価格は形成されておらず、投資家のリスクも大きいと。

しかし、外国為替市場が投資家に有利なものであることは間違いない。投資家と違い、貿易会社や自動車会社は一日中パソコンにかじりついて市場予測をしているわけにはいかないのだ。

そこで会社は専属のトレーダーを雇わなければならなくなる。その余力がない会社は情報不足のまま市場に参加しなくてはならない。このトレーダーへの報酬や為替の時の損失は輸入品を買う消費者が負担している。そうでなければ、自動車工場や電気機械工場の工員の給料や途上国からの一次産品仕入れ価格の抑制で捻出している。その分のお金は為替市場への投資家のものになる。

行き過ぎた通貨交換市場は弊害を生む。2000年前の教訓は未だ時代遅れでないと思うのは私だけだろうか?