≪今日のコペル先生独り言≫

僕が仏教に触れることになるきっかけを与えてくれた禅僧の坂巻智光さん。

初めて茅山荘の一照さん坐禅会に出向いた時も一緒で、2009年12月26日寒い冬だった。

曹洞宗 禅僧 坂巻智光 経歴:(1948ー2017)東京生まれ。

子供のころ白土三平の漫画に刺激され忍者になりたくて身体の事を勉強したく野口体操の門をくぐり後に酒井得元老師に出会い出家。

坂巻智光 生前の言葉 2010.12.27

坐禅は何にもならない、       

手元にある妙元寺の『返照』からです。

坐禅は無所得無所悟をつとめる事なのだ。無所得とはどんなに修行しても、収穫が無いという事なのだ。悟ることが無いという事だ。人体の一表情で有る人生を超えて尽十方界真実人体を修行するものである。真実の仏を行ずるものである。我々は正身端坐を厳密にする事だけを要求されるので有る。真実の仏を行ずる事なのだ。自分の欲するもの、追求などは一切ほうきされ、仏が仏であるための、修行である。仏行である。何もならない坐禅に無量無返を感得するのである。

智光さんの説明

・坐禅は、修行しても自分の為の修行では無い。

・ 自分というのは、小さな自我(個人的)なことでは無い、坐ったら仏になること。

・ 私たちの思っているような、この世的なことになるわけではない、得をするとか、いい気持ちになるとか、自分が得をすることではなく、もっと大きな大自然、大宇宙の一部であることがわかって、本来は仏であって宇宙の一部であることが解る。だから、仏を行じることで、仏は、大宇宙、大自然は自分の為にしてなくて皆自分が得する為にしていない、風だって、星だって、お月さまだって自分が得する為にやってないでしょ。ただあるだけ、ただやっているだけ。ただ坐ることがただ宇宙の一部であることがわかる唯一の方法である。それで本来私たちは仏なので、それで私たちが気づくことができる。

・ だから『何にもならないよ!』ということは、私たちがおもっているような事(自我の欲求)には何にもならないよ!ということ。

仏が仏になることである。仏は、大宇宙・大自然ということだから、私たちは仏教者だから仏と呼ぶだけです。

・ 正しい姿勢が私たちは一番楽な姿勢です。60兆個の細胞が曲がったら楽でなくなる。真直ぐとは自分にとっての真直ぐで(生まれたときから曲がっている人はその人の真直ぐでいい)

・ 上半身が全部緩んでいるのが、上半身の全細胞が緩んで細胞が有るべき所にあるのが一番細胞が快適よ。それが自分にとっての真直ぐである。それをやるには、この坐禅の体勢が一番長く坐てられていいのよね。

・ お尻を高くして、脚を二等辺三角形(腰と両脚で三角形)にして、三角形の真ん中に頭が乗ってそして、結跏趺坐するとすごく安定する。

・ 坐禅は、宇宙のリズムを努力して、宇宙のリズムを感じることである。それには、上半身が緩んで全細胞が有るべきところに無かったら、そっちの方向にエネルギーがいってしまう。

・まけて、まいって、まかせて、まつ、まをあけ、まをまつ、のまは、「間」です。

※坂巻智光さんは、2017年5月にこの世を旅立った

僕は、智光さんに感謝の気持ちを込めて

二人の対談をテープに起こしをしています。

『人間まるごとほどくには・・・

第1回 医学と禅

 今日のお客様 曹洞宗 坂巻智光  』

まだ途中ですが、でき次第発表いたします。

どうぞお楽しみにお待ちください。筒井重行