医師は医学的見知とか平均寿命とか様々なことを考えて治療をしていることはわかっている。
だけど・・・患者のわたしは「今の苦痛」を和らげてもらいたい。その一択。
平均寿命を考えながら手術や薬などの治療でのリスクを最小限にしたい医師の思いもわかっている。
だけど・・・
私の指は両手ともに限界になろうとしている。
平均寿命を考えて手術のリスクを減らすことや、進行に伴う指の機能の変化がどうなっていくのか読めない今の状態での手術が1度で終わらない可能性もあることは十分に理解している。
それでも・・・進行性の病気である以上、止まることはない中で進行が落ち着くのを待っていたら、私は一生・・・手術もできず近い将来、指の機能を失ってしまう。
指の機能を失って70歳が近づいて手術で指が使えるようになっても、その頃にはこの年齢で必要な指の動きはそんなに必要ではなくなっている。
生活の質にだけこだわればいい70歳と、生活するためには働くことも必要な今の年齢では既にQOLだけの問題ではなく、とっくにその状態は過ぎてしまって「死活問題」になっている。
文字を書くこと、パソコンのキーボードやマウスの操作・・・物を持つこと・・・事務仕事での基本的な指の動作の制限がありすぎて、ここ最近は「いつまで働けるのか?」「もう無理だなぁ」と思ってばかりいる。
パソコンも音声入力で対応できたとしても、調子が悪いと声も出すのが辛い。従業員や会社の情報を音声入力するわけにはいかない。
それを医師がちゃんとわかってくれるのかっていうと・・・普通に暮らしている患者の生活を理解するって難しいのかもなぁ・・・と思う。
私がどんな仕事をしていて、仕事で必要な動作の何が困っているのかって知らないし・・・。
でも・・・これまたずーーーーっと思っている。
10年後の未来の自分のために
「今」を生きているわけじゃない。
「今」を生きている私にとって「10年後のわたし」が存在するかも微妙なのに「今」やりたいことができないでいるのは生きる力を奪われているようなもの。今、できることがあるのに、未来の私のために今やらないという選択は医師にとっては重要なことであったとしても、私にとっては何の意味もないこと。
来るかどうかわからない「未来のわたし」のために「今」を生きることはできない。「今」を大切に歩きたいから「今」できることはやりたい・・・という思いがなかなか伝わらない。
先生たちには先生たちの「未来」が当たり前に存在してるかもしれないけど、この病気を抱えて未来は当たり前に来るものじゃないと思うからこそ、生きていくためのチカラになることを「出来るうちにやる」と決めている。
もし元気で病気にもならなかったら、未来は当たり前にあると思って「今じゃなくてもいい」っていう気持ちになって、結果一生やらずに過ごしていただろう姿が浮かぶ。
指の機能をすべて失う前に・・・何とかしてほしい・・・と考えていたら、何とかしてくれる先生を探すことも必要なんじゃないか・・・・と思い始めてきた。こんな思いが地元の病院だけではどうにもならず遠征通院につながっていく地方の大変さなんだと思う。
それをドクターショッピングとは言わないと思っている。
