遠視が進み乱視も入り・・・メガネを作り変える頻度が上昇。
落ち着くまでは仕方ないかなと思うけれど・・・
しかも「目」だし・・・見えないのは困るから。
それで見えにくくても使っていたメガネを整理整頓。
合わないまま使うのは良くないと突然思った。
で・・・整理していたら母が亡くなった年に母が使っていた2020年の手帳を久しぶりに開いてみた。
奇麗な字を書いていた母も70歳を過ぎて、なぐり書きのようになっているけれど、母が生きていたことを実感できる数少ない遺品。
ひとつの箱の中に収めているのだけど、たった1冊しか残していなくて、母は何となく自分の最期の日を感じていたのかなぁってずっと思っている。
2020年10月27日、突然亡くなってしまったけれど、その手帳は2020年6月4日で終わっている。
この日は・・・
私が【自力で動くことの出来る最後の日かもしれない】と感じて、N病院内分泌内科を受診した日。
そして母が膝関節を人工関節にして、リハビリを終え退院した日。
この日のことを・・・忘れていた。
ここから私は状態が更に悪化していき、そして難病診断され「1年以内に人工呼吸器も有りうる」と言われたのが12日後だった。
母は私には心配そうな顔を見せず「大丈夫!」と笑顔を見せてくれていたけれど、亡くなった後、色々な手続きで色々な方たちと会う中で、「娘さんの病気のことをとても心配していましたよ」と教えて頂いた。
そんな素振りを1度も見せなかった母。
強いなぁって感じた。
母が旅立ってから丸3年が過ぎようとしている。
当たり前の日常の中で、いつもと変わらずに透析に出かけ、そのまま自宅に元気に帰ってくることが出来なかった。
でもきっとそれは・・・母が一番に驚いたことだっただろうと思う。
あまりにも・・・ありふれた朝の会話の後の母の最期に、それまでの「したかった親孝行」を出来なかったことに、いつまでも親って当たり前に居るって思っていたことを後悔もしたけれど、子どもたちに介護をさせることなく、母らしく旅立ったのは、母の子ども孝行だったなぁ・・・ありがたいなぁと思った。
あの頃から今日までの私の状態で、もし母を介護することになっていたとしたら、それは出来なかった。
自分の事で一生懸命の私は、母にしてあげたいことが出来ないことを責める日々でもあったかもしれないと思う。
母が文字に残せなかった私への想い・・・。
その想いを・・・感じた日・・・
もう3年も会っていない。
もしかしたら笑って「ただいま」って帰ってくるんじゃないかと思うくらいに呆気なかった最期。
時間と共に母への「ありがとう」はどんどん増えていく。
毎日・・・朝、仏壇にろうそくとお線香、お茶とご飯をあげながら、母に・・・そして祖父母に・・・ご先祖様に手を合わせながら話しかけている。
きっと・・・届いてるよね。
そして私は・・・守られている・・・そう感じる体験をこの3年たくさんしてきた。これからもきっと続いていくのだろうと思う。
その想いを感じながら・・・大切に生かされている時間を過ごしていきたい。