元々死にかけたことは、これまで3回くらいあったし、よっさんやユキちゃんとのこともあったから、人が生かされていることには意味があると思ってきた。


単に生きているのではないと思っていた。


難病になって、毎日毎日、半端ない痛みと戦うことは、心も体も限界になり、生きていることこそ闘うことだと思うようになった。


なぜこの激しい痛みを抱えて生きていかなければならないのか?


痛みや苦しさの出口が見えているなら、分かっているなら、耐えられるかもしれないけれど、この先の未来、生きている間中、この苦痛を背負って過ごしていかないければならないのだとしたら、そんなに悪いことを私は無意識にしてきたのか?

理由もなく自分を責めたこともある。


当事者支援をしようと思ったのは、そんな痛みとの闘いの中で、自分がこの生を生きなければならないことに対する使命を感じたのかもしれない。


生かされていることの意味は、大きなことをするかしないかではなく、その人が生かされていることに理由があるのだろうと・・・そうでも思わなければ、痛みや苦しさを抱えて生きていくことは、謂れのない罪を背負わされて生きていく感覚に似ているように思う。


逃れたいのに逃れられない苦痛。それでも生きていること。

そこには希望がないと、救われることがないと、なかなかに「今」を歩くことすら難しい。


生かされていることの意味が見つからなくても、きっとこの生が終わるとき、気づくのだろうなぁと思っている。


今日のこの一歩が他の人から見たら小さな歩幅でも、自分にとっては、とてつもなく大きな一歩。

比べることなく歩けたら・・・と・・・思いながら、健康な人と比べて出来なくなったこと探しを始めたりする。


元気だった頃の自分に戻りたくなる。


厄介な心も宝物に出来るといいのだけどね。