今日は7月7日の七夕
私の(ホントの)名前は
七夕にちなんでつけられた
もしかしたら
生まれたときから
私にとって七夕は
とても重要な意味を
持っていたのかもしれない
今日は
よっさんの命日
いなくなって
どのくらいの時間が過ぎただろう
もう23年になる
こんなに長い歳月を
どんな風に過ごしていくのか
当時は何も考えられなかった
過ぎてみて思うのは
よっさんの存在の大きさと
だからこその
「いのち」を
常に心のどこかに置いた生き方
「当たり前の明日」は
「当たり前に存在しない」
「生きている」のではなく
「生かされている」こと
そのことを常に意識して
日々を過ごすことは難しいけど
よっさんを想うとき
必ず刻まれ
振り返り
思い出す言葉になっている
この23年の時間に
わたしのよっさんへの想いは
1グラムも変わっていない
今を生きている人たちへの
想いとは違うところに
よっさんへの想いはある
生きている人へ向けることの出来る感情は
相手からの応答がある
人は自分の中の軸にそって
譲れるものと譲れないものを
天秤に掛けて
様々な選択をしている
それも「いのち」あればこそ
出来ること
亡くなった人と
今を生きる人への想いは
そもそも比べたり出来るものではないし
亡くなった人を越えることは
今を生きる人には出来ない
七夕の命日が来ると
自分自身の1年を
本当に約束したとおりに
歩いてこられたか
自分に問い直す時間になる
そうして1年1年を積み重ねて
気付いたら
よっさんの生きた年齢を遙かに越え
当初はそのうち薄くなって
思い出すことも少なくなって
こんなに時間が過ぎたら
忘れてしまうのかなぁと思うこともあったのに
変わらない気持ちを持ち続けている
生きていたときは
本当に本当に
傷つけ合ったことが沢山あった
今振り返っても
私の人生を変えたのが
なんでよっさんだったのか?
答えの見つけられないこともある
でも
よっさんが居なくなってからの時間
よっさんを忘れずに過ごしてきたことを
ごくごく当たり前のことと感じている
それで良いと思っている
23年経っても
わたしに出来たことが
もっともっとあったのではないか?
私のしたことは良かったのか?
後悔ではなく考えることがある
何をどう考えても
あのときの私に出来ることは
全てしてきたし
しなかったことの後悔は
絶対に持たないように行動していた
そして後悔というものを
たぶんしたことはない
ただ時間が過ぎて
少し冷静にその頃を見られるように
思えるようになってみて
今だから・・・
あれもやれたよなぁ
こうしておけば良かったのかなぁと
思うことも出来てきた
でもそれは後悔とは違うし
亡くなった後に考えることは
たぶん
よっさんも望まなかったことだと
そう思っている
織り姫と彦星が
1年に1度
天の川で再会できる七夕
わたしにもそれが出来ると良いのになぁと
毎年七夕が来る度に思う
よっさんは
私の名前の由来の日に
この世を去った
しかも七夕という伝説のある日に・・・
それも
私たちの縁なのだと思っている
不思議なことに
それほどの歳月
変わらない想いを持つ人と
もし来世があるとしたら
ともに過ごしたいかというと
最近は過ごしたいと言う気持ちは
小さくなっている
そこには
現世で傷つけあってきたことや
命を前にしてしか
お互いを愛しみ合うことが出来なかったからこその
来世でも同じ経験をしたくないという
気持ちから来ているのかなとも思う
それでも
私がこの世を去るとき
よっさんが両手を広げて
待っていてくれるという
そんな気持ちがあるのは
来世ではなく
亡くなったあと行く場所で
再会できると思っているからだろう
よっさんのご両親も亡くなられ
お参りに行くこともなくなってしまったけれど
想うこと
祈ることは
お参りに行くことだけではないから
今日は1日
よっさんに浸りながら
嫌になるくらい思い出したいと思う
今住む世界で
誰よりも
よっさんが幸せでありますように