ALAです。
先日、「クレイジージャーニー」を
観ていて驚いたんですけど、
「隠れキリシタン」って
現代にもまだいたんですね!!!
正確には、
隠れキリシタンとしての信仰方法?を
現代にも受け継いでいる。。。っていう
形なんですが。
「潜伏キリシタン」関連遺産として
世界文化遺産に登録申請中だそうです。
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隠れキリシタンの方々は現在も、
仏壇の前で祈るふりをして
隣家で同時に十字架の前で祈ったり
こっそりと十字を切る。。。など
「仏教を信仰するふりをしながら
心ではキリスト教を信仰する」
という形をとり続けているそうです。
とっくに禁教令など解かれ、
普通に信仰が認められているんだから
隠す必要なくない?
という指摘に対し、
「密かに信仰するスタイル、というのが
我々の信仰の根幹なので
そこを変えるつもりはない」
とおっしゃっていて
世間が認める、法で認められるとか
関係なく、“隠す”ということ自体が
教義であり信仰の発現である、
という考え方がまた目からウロコで
そうだよな、そもそも個人的な信仰心に、
世間が認めるか否かとか
関係ないよな~、と考えさせられました。
なんか、
これ言うとさすがに
怒られるかもしれないんですけど
全然違うかもなんですけど
LGBTの“クローゼット”に似てるなぁ~
と、思ってしまいました。
クローゼット(オープンにしない)方々の
理由はいろいろですし、
もちろん、「偏見や差別を避けるため」
という方が圧倒的に多いでしょうが
社会の差別や偏見がいくら薄まろうと、
アライ/フォビア関係なく
「生涯、誰にも言うつもりはない」
という方もいます。
「クローゼット」というと、
自分がLGBTであることを
マイナスと捉えている人々、みたいに
誤解されることもありますが、
「異性愛の人はカムアウトなんてしない。
なら、自分もわざわざ言う必要がない」
「言うことで、自分が“少数派”であり
“人と違う”ということを
自分自身で認めることになる」
などなど、
クローゼットである理由の中には
「LGBTであることを恥じる必要がない」
という、強い意志を感じる意見が
数多く見られ
自分としては、オープンリーよりも
クローゼットの方により深く共感します。
隠れキリシタンの方々の風習が
「キリスト教信仰のひとつ」であるのと同様、
クローゼット主義も、それはそれで
「セクシャリティのひとつ」、なのかな
とも思います。
というか
自分の感覚では、結構オープンに
しているつもりでいたんですけど、
よくよく考えると、性志向/性自認について
カムアウトした相手って
ふたりしかいないんですよね。
職場にも、友人にも、家族にも
衝動的に「言っちゃおうかな」と
考えることはたまにあるけれど、
直前になって考え直し
結局言わない。。。ってことばかりです。
言ったところで、別に
良い事も特になかったし。笑
なんというか、
カミングアウトしようとすると
「あ、自分、無理してるな」って
感じてしまうんですよね。
自分が、
「無理にLGBTぶろうとしている」みたいに
違和感を感じてしまうんです。
オープンにすることへの違和感。
絶対偏見を持たないと分かっている
相手であっても言わない。
偏見を恐れているんじゃなく、
カミングアウトすることに
結局、気が向いてないんだと思います。
察していただける分には
まるで問題ないんですけどw
ってことで曖昧なクローゼットです。
ちなみに、クローゼットの人にとっては
アウティングは二重の意味で暴力です。
国立市の「アウティング禁止条例」について
ブログ記事書きたいと思って早1週間。。。
そのうち、そのうち。。。
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