ニホヒノフシギ | もののけ神社社務日誌

もののけ神社社務日誌

情けなしとよ、高僧たち。偽りなしと聞きつるに、鬼神に横道なきものを。

 コウドウって知ってるか?


 香道……カオリのミチ、と書く。


 お香をたいて、それを嗅ぐ……ああ、嗅ぐなんてホントはいっちゃいけないんだ。


 お香は「聞く」もの。


 おれのおばさんが熱心でな。嗅ぐなんていっちゃ怒られるんだ。


 その、お香を「聞く」……これが大きく分けてふたつに分かれる。


 お香を聞いて「ああ、いいですね」と鑑賞する。つまり、ただ聞くだけだな。


 もうひとつは、そのにおいを聞いて、なんのにおいか当てるというもの。


 たくものはカオリのキと書いて、香木という。


 たまにおばさんがたくのをおれも聞くがな、なんともすばらしいにおいなんだぜ。


 鼻ですうーっと吸い込むと、えもいわれぬ……なんともいいがたいにおいが、身体の中へ中へと少しずつ広がってゆく。


 日頃のストレスなんてブッ飛んじまって、だんだん気持ちよくなるんだ。


 いちど、機会があったらやってみろよ。


 薬物じゃないからよ、変なことはないし……って、こんなこというとまたおばさんに叱られるか。


 チッ……なんだよ、そんな顔して。


 おれがいうことばにゃ、説得力がないって?


 ま、信じないでもいいさ。いっぺんお香を聞いてみたら分かるんだから。


 おばさんていうのは、オフクロの姉だ。


 バアサンも……オフクロの母親の方な、このバアサンもちょっとは齧ったらしい。


 どうもおれの母系の方に、代々香道をやってる人がつづいてるようなんだ。


 バアサンの母、これはつまり、おれにとってはひいバアサンだな。


 ひいバアサンの母、これは高祖母。


 母、母の母、母の母の母と……こんがらかってくるが、とにかく女の方に香道やる人が出る。


 いや、香道ってのは、べつに女性に限るんじゃない。


 男子禁制ってわけじゃないんだ。


 よいにおいを聞く、聞いてなんの香木かを当てるっていうのは、あまり男性的とはいえないかもしれないけどな。


 おばさんがついているお師匠さんのところへも、けっこう男が通ってるって話だ。


 とはいえ、お師匠さんていうのも、おばあちゃんらしいんだけどな……。


 それで、つい先日のことだ。


 稽古中に、お師匠さんがいったんだ。


 珍しい香木を手に入れたから聞いてみましょう、ってな。


 ああ、おばさんもそこにいた。


 ふつう香木ったら、伽羅、沈香、白檀……。


 ま、これが御三家だ。


 上物の伽羅なんて、聞いた瞬間にブッ飛びそうになるんだぜ……いやいや、こりゃいかんな。


 こんないい方。おばさんに叱られる……伽羅の上物なら、一グラムで軽く五万くらいはする。


 沈香や白檀ならうんと安いけれども、週にいちど集まって、においを聞く連中だぜ、もう鼻が慣れてしまってる。


 おばさんはな、てっきりこれは伽羅の上物だって思ったそうなんだ。


 お師匠さんがその香木とおぼしきものを懐から出して、


「貴重なものだから、心してお聞きなさい」


 そう注意して、香炉の中に香木をおいた。


 えっ? なんだって?


 おいおいおい、かんべんしてくれよ。


 線香じゃないんだから、直接火をつけるんじゃないんだ。


 いくつか方法があるが、基本はあらかじめ炭をおこしておいて、それを埋めるんだ。


 炭っていっても、タドンのことだからな……念のため、いっとくと。


 で、その上に銀葉っていうもんを乗せる。こりゃあ、雲母でできてるそうだ。


 こんな下準備をしてから、初めてその上に香木を乗っけるんだ。


 ああ、香木ってのは……ウッドチップってあるよな? あれくらいの大きさに切ってある。


 刻んでもっと細かくしたもんもあるけどな。


 さて、お師匠さんがみずから香木を灰の上にのっけた。


 なんともいえぬ芳香が、ほんのりと立ちのぼるはずが……。


 おばさんには、全然いいにおいじゃなかったんだ。


 ああ、むしろ変なにおいだった。


 てっきり伽羅の上物だと思ってたんだからな、その落差たるや推して知るべし、さ。


 苔がくさったような、古い家のカビやホコリが混じったようなにおいって、いってたっけ。


 おばさんが周囲を見ると、みんなうっとりしている……どれもよく知ってる顔だったからな、「ああ、これって本当はいいにおいなんだろう」ってことは分かった。


 さすがに、お師匠さんが貴重なものっていうくらいだからな。


 うん……おばさんは、じぶんの鼻がどうかしたって思ったんだ。


 回りはなんともないんだからな。そう思うのもわけはない。


 ただ、香木をたいた香炉がな……まわってくるんだよ。


 ふつう香を聞くときは、そうなんだよ。茶道の茶碗のように、香炉が順ぐりにくるんだ。


 で、ひとりずつ香を聞く。


 どうしよう、と思った。


 ひとり目の弟子が聞き始めると、香炉が近づいたからだろう……いっそうひどいにおいに感じられる。
 直接聞いたら、吐いてしまうかもしれない。その前に中座するべきだろうか。


 いや、そんなことはできない。お師匠さんがさっき、心して聞くよう申し渡したばかりではないか。


 そうこう思い悩んでいるうちに、となりの人が香炉を受け取って二度まわし、持ち上げた。


 おばさん、絶体絶命なわけだが……どうしたと思う?


 あんたなら、くさいにおいがするときって、どうするよ?


 ああ……そうさな。それが妥当なとこだろう。


 常識的なセンだ。


 おばさんも、現にそうした。


 香炉がじぶんの膝の前にまわってきたところで、口でおおきく息を吸い込んだ。


 それで、息を止めたんだ。


 ……こうしてなんとかやり過ごして、香炉がお師匠さんとところへと無事もどった。


 この日のお稽古が終わってからも、みんな興奮さめやらぬ様子で、ああやっぱり違いますね、分かりますかなんていってた。


 おばさんも、そうですね、本当によい香りでしたこと、なんて話を合わせてた。


 おばさん、ずいぶん打ち込んでたからなあ、ショックだったけれども、鼻がどうかなったに違いないって。


 今晩は早く休んで、まだ変なようなら病院に行かなきゃならない……。


 帰り支度をしてたらな、引き上げたお師匠さんがもどってきたんだ。


 で、おばさんにちょっと残って、といった。


 ああ、やっぱりバレたかあ……なにいわれるんだろうって心配になった。


 みんな帰ったあとで、お師匠さんと向かい合って正座。


 叱られる覚悟をしていたんだけれども、お師匠さんがこんなことをいったんだ。


 変なことを聞くけれども、と前置きして、


「あなたのご家族の中に、サイパンで亡くなった方がいないかしら?」


 うん、確かにいるんだ。


 昭和十九年かな。サイパンが玉砕したのは。


 そのとき、バアサンの妹が亡くなってるんだ。


 この人、やっぱり香道をしててさ。おばさんのように、ずいぶん入れ込んでたそうだな。


「ええ、おりますが、それがなにか……」


 すると、お師匠さん、


「さっきの香木はね、サイパンに住んでる人から送られてきたものなのよ」


 おばさんは、はあ、としかいいようがない。


「その人、浜辺でこの香木を見つけたそうなのね。もちろん、サイパンの……ひょっとしたら、その亡くなられた方が、お持ちになってたものじゃないかしら」


「それはどうでしょう……分かりません」


 するとお師匠さんは笑って、


「さっきのあなたの反応を見てれば、すぐ分かるわよ」


 そういって、くだんの香木を渡されたそうだ。ああ、全部。全部さ。


 香木が見つかった浜辺で、バアサンの妹が死んだとなれば、ツジツマはあうけれども……実際のところ、本当かどうなのかは分からない。


 お師匠さんは、サイパンにいたおれのバアサンの妹が、香道を習ってたなんてことは知らなかったようだけれどな。


 ああ、おばさんはな……せっかく受け取ったっていうのに、たいたことがない。


 仮に親族の手に渡ったとしたんなら、いいにおいがしてもよさそうなもんだけどな、いまだにくさいっていってるんだ。


 おれも聞いたことが……いや、香炉でたいたわけじゃないから、ちょっと嗅がせてもらったってとこか。


 うん、そんなにすばらしいもんでもないけど、まあまあいいにおいだったよ。


 おばさんだけなんだ、くさいっていうのは。


 ん?……ああ、もちろん病院に行ったようだぜ。


 異状なんて、どこもなかったとさ。