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初めての方は注意事項に目を通してからお読みください
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愛されたいのに、人を愛する能力のない人といるとどんどん心が削られていく。
それは、愛情不足とは違う。
不足というのは、真の愛情が足りていないことである。
偽物の愛がいくらあっても真の愛情になることはない。
だから、偽物の愛を真の愛情と思っていると、ズタボロになる。
愛する能力のない人なのに、愛してもらえると思って接するから深く傷ついてしまう。
どんな人も愛する能力があると信じていると、どんなところにも愛があると信じて追い続ける。
そこに愛がないと知っていれば愛されることを期待しないし、愛されたければ愛する能力のある人と関わろうとする。
きっと、愛されて育った人は真の愛情を知っているし、愛する能力のある人も見極められるのだろう。
ところが、真の愛を知らないと愛のないところに無理に愛を求めてしまう。
あるはずだという幻想を持っているから深追いしてしまうし、どんなに傷ついてもここに愛はないと諦めることができない。
この場を離れればいくらでも愛されるのに、ここ以外に愛される場所はないと錯覚している。
さて、本題だが……
嫌われる発達障害の人というのは、一言で言うと人を愛する能力のない人だ。
「俺だって辛いんだ」とか「努力してる」とか、「わからないから仕方ない」と言い放つ発達障害の人は、結局は自分のことばかり。
定型のTが「あなたのここは迷惑だ」「こういうところは直して欲しい」「あなたのこの態度に傷ついている」という話をしているのに、アスペルガーのAが「自分だって…、自分の方こそ…」という言い方をするのは、Tの言い分を一切聞き入れていない。
Tが傷ついたという話をしているのである。
TがAに迷惑をかけられたという視点で話しているのである。
Aの視点ではない。
Aの言い分は聞いていない。
自分がって何やねん。
お前の話なんかしてないわ。
Aは自分のことしか頭にない。
自分だけを愛しているという態度である。
もし、Aに人を愛する能力があるのならば、自分の辛さや努力だけではなく、相手の立場や気持ちに考えが及ぶはずである。
それは理屈で知るのではなく、相手の思いも感じてしまう、つい想像して自分も胸が痛くなるという感覚だ。
自分に言い分があるのなら、当然、相手にもあると考える。
少なくとも、指摘されればそこに気づく。
愛する能力のないタイプのAにはこれが見られない。
Tに文句を言われたり、泣いて訴えられたりしたその時には、Aも自分のことでいっぱいかもしれない。
しかし、AにTを愛する気持ちがあるのならば、後にTの立場に思いを馳せることがあるはずだ。
そして、人を愛する能力のある人ならば、決して小さくはないショックを受けるはず。
AにはTを傷つける意志などなかったのに、Tを深く傷つけていたのだ。
そんなことも知らずに今まで一緒に過ごしていた。
それなのに、傷ついているTに今のままでは何もしてやれない。
これがどれだけ辛く悲しいことか。
重大な事実を知らなかったことに加え、知ってもなお自分の能力ゆえにまだ傷つけ続けてしまうという現実。
相手を思いやることができる人なら、卒倒しそうなショックである。
それがそうはならずに平気であるということが、Aが愛する能力はないということの何よりの証拠である。
同じ発達障害でも、ここでTを傷つけていたことに気づくことができる人(H)もいる。
こういう人は、徹底的に嫌われたりはしない。
寧ろ、気づいたものの中々修正できないことに鬱になってしまったりする。
気づくタイプのHは、他人から見た自分の言動を知ってショックを受ける。
気づいたところで、思うように行動できず落ち込む。
その時はすごく落ち込むのに、大事なことをすぐに忘れてまた同じ失敗をする。
わかっているのに出来ないもどかしさ、ジレンマを覚える。
発達障害の人はその特性ゆえに同じ失敗を繰り返す。
わかっても出来ないのだ。
だから、周囲は長い目で見て協力し合うことが不可欠。
言われてすぐ気づく、すぐに直せるという特性ならば障害とは呼ばない。
当事者の努力だけで素早い解決を期待するような人は、今すぐ発達障害者のそばから離れるべきである。
それこそ、発達障害者には迷惑な定型なのだから。
気づくことができる人、そこで自分の言動を変えたいと思うことができる人は、人を愛する能力のある人だと思う。
人を愛する能力のないAは、Tのどんな現実にもショックを受けない。
そもそも話を聞かない場合もあるし、事実を認識してもTの気持ちなどの状況は把握しない。
愛する能力のある人なら自分の無能さを呪うような状況なのに。
例えば、幼い時に友人や家族を助けられなかったとする。
自分には何の責任もないし、誰もが未熟さゆえに仕方なかったと思っている。
しかし、思い返さずにはいられない。
これが愛のある人だ。
この愛を正しく表現しようとする人は、今度は自分が力をつけて友人や家族を助けようとする。
もしくは、過去の自分のような辛い思いをする子供が少しでも減るように、尽力する。
宇多田ヒカルの『Adicted To You』の歌詞にあるような心境も、多くの人が経験しているかもしれない。
今、おとなになりたくて
いきなりなれなくて
この曲は恋愛に関するもので、毎日でも会いたいという子供みたいな感情に対し、大人になりたいと歌っている。
だが、直面した現実と今の自分の間に、様々なギャップや葛藤があるというのは多くのことに当てはまると思う。
気持ちの上では今すぐ大人になりたいのだ。
相手の事情を考えられる大人に。
いきなりなれないと知っているのに、もしくはなれないことに気づいたのに、どうにか出来ないかと焦ってしまう。
うちの親に、この種の葛藤が見られたことはなかった。
我が子がどんなに苦しんでいると知っても「出来ないものは出来ない」で終了だ。
「どうにかしたい」という意志も「どうにもできない」という無念さも、何も伝わって来なかった。
友人の発達障害の中には、反省もしているし迷惑をかけないよう行動しているのに繰り返してしまうことに、歯がゆさや葛藤を覚える人もいた。
だが、被害者意識しかない知人もいた。
もう10年も前だが、ある女は、俺が「もうそんなにメールはできない。彼氏でもないんだし…」という内容のメールをしたら、ブチ切れてそれきりになった。
女の言い分はこうだ。
「私は前に、怒られたりキツい言葉を聞くのが嫌いだと言った。
あなたの言い方はものすごくキツい言い方だった。
嫌だと言ったのにそれをしてきた。
もうあなたとは付き合えない」
今、思い返しても、この女は本当におかしいと思う。
まず、キツい言い方というが、俺がこの女と会ったのはたったの2回だけである。
文面だけで口調がわかるはずもない。
勝手な決め付けにもほどがある。
それから、この3カ月間、この女は朝から晩まで俺にずっとメールし続けてきている。
朝一のおはように始まり、昼休み、帰宅後、夕食後、時にはそのまま寝落ちで、翌朝に続くという状態だった。
しかもかなりの長文、内容も相当ヘビーなものが含まれた。
一日がこの女のメールと共に流れていくという状況に嫌気がさして、冒頭の「彼氏でもないんだし…」に繋がる。
この直前、俺は携帯を紛失してこの女とも1週間ほどメールできなかった。
女の「こんなに色々話せた人はいない。心配していた」という台詞は、好き放題言える便利な奴を失いたくないというだけだったのだろう。
最後は本当に、俺のことは微塵も大切に思っていないのだということがよくわかった。
愛情のない人というのは迷いがない。
自分が正しい世界にどっぷりと浸かっているので、不安になることがないようだ。
愛を感じられる人は、自分の愛情が伝わっているか、相手は自分のことをどう思っているか、少しは不安になるものである。
そのことに怯えるのは行き過ぎだが、相手の反応を見たり時折確認したりするという作業は必須だ。
それが相手を気遣うということであり、コミュニケーションというものだと思う。
コミュニケーションしない発達障害というのは、この作業を一切しない。
必要ないというか、必要な世界を知らないのだ。
このタイプの発達障害の人にとって、他人は自分を主人公とする物語の登場人物でしかない。
他人には他人の物語があると思っていないので、そんな人に何かを伝えるとか確認するなどあり得ない。
決まった動きをするものだと、勝手に思い込んでいることが多い。
だから、先の女のように俺が思うような行動を取らないと、平気でブチ切れる。
自分が正しいというより、自分の思惑通りの世界しか存在しないと思っているのだから、当然かもしれない。
書き出してみたものの、胸糞悪くなってきた。
もう二度とこんな奴と関わりたくない。
しょうもない女に出くわしたことは事実だが、女運がないとかただ被害者だと思っていては何も変わらない。
何かがおかしいと思いながら、俺はこの女との関わりを3カ月も続けてしまった。
何の愛もない関係を、いつか愛してほしいと思いながら。
自分が変わらないと、こういう女に利用される人生から抜け出せない。
もう変わりたい。
俺は真の愛情も、真の愛情を持っている人も、知らないわけではない。
上手く受け取れなかったことは何度もあるけれど、今振り返ってあれは愛だったとわかるということは、少しは愛情が分かる人間になれたのだと思う。
俺がどんなに傷ついてもショックを受けない人に、俺がショックを受けるという関係からは、足を洗う。