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初めての方は注意事項に目を通してからお読みください
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今を変える目的は、大雑把に言えば自分が幸せになることだと思います。
そこにアスペルガーのその人も関わっているので、良い関係でいられる距離を探っているわけです。
それなのに、いつの間にか自分が正しいことの証明に追われていないでしょうか。
アスペルガーと一緒にいると「俺は何も間違っていない。全部お前が悪い」と、迫られることが多くなってきます。
そのため、定型は自分には非のないことまで全て自分のせいだと思い込んでしまうことがあります。
これは、これまでの経験や家庭環境などで傷つき慣れてる人なら、特に長いこと耐えてしまいがちです。
そして、忍耐が限界に達すると、今度は反動で「自分は何も間違っていなかった。全て発達障害のせいだった」となってしまうように思います。
発達障害が一般的にどういうものか、知っておいて損はないでしょう。
寧ろ、これまでの失敗は、お互いが発達障害というものを知らなかったゆえのすれ違いなので、知識は持たなければいけません。
しかし、その一般論を自分の正しさの証明に使ってしまっては、そこで終わってしまうと思います。
多くの実例から「同じ思いに駆られていたのは自分だけではなかった」と、心強くなった人も沢山いるでしょう。
自信を持つことは大事です。
ただし、それが正しさの証明に終始してしまってはもったいないと思います。
アスペルガーの人とどう付き合うかは、一般的に何が正しいかに関係なく自由に決めていいものです。
確かに、一般論が後押ししてくれれば、自分の決断が保証されたような気分になるでしょう。
それに対し、一般論には見られない判断をする時には、自己責任だと言われているようで非常に勇気がいります。
でも、どちらも同じなんです。
結果が返ってくるのは自分です。
嬉しい思いも悲しい思いも、自分しか味わうことができません。
その思いに責任を取れるのは、自分だけです。
「障害があるから離婚だなんて、旦那さんがかわいそう」と言うなら、その人が結婚してあげればいい。
「親を見捨てるなんてひどい」とか、だったらあなたが面倒をみればいい。
それは出来ないと言うでしょう。
出来ることに限りがあるのは皆同じです。
自分だけが責任を感じる必要なんてないんです。
安心したくて一般論を選択する。
もしくは、自分の選択に安心したくてそれを一般論化する。
どっちも最終目的からはズレています。
自分が幸せになるために努力してきたはずですよね。
正しいことをしたからといって幸せになれるわけではありません。
ただ、ちょっと安心できるだけです。
また、人は正しいことに従うわけでもありません。
これは「子供は正論では育たない」という言葉からもわかるように、人は正しい理論に従うのではなく、その人を信頼してるから従うのです。
さらに、相手がアスペルガーの場合は一般論がどうのということは関係ないと思います。
「俺は間違っていない」と言い切るアスペルガーは、自分視点の世界しか見えていないので一般論や常識という概念も乏しく、それと自分の考えを比較するという発想がありません。
だから、定型がどんなに「私の方が常識的だ」と詰め寄ったところで、アスペルガーは全く堪えないと思います。
だからこそ悔しいというのはありますが……。
今を変えたいのが『自分』であるというのは、自分が悪いということではありません。
自分勝手だと非難したいわけでもありません。
『自分が選べる』ということです。
「迷惑をかけているアスペルガーの方が努力すべきだ」というところで止まってしまうと、結果を相手に委ねることになってしまいます。
「嫌だ」と言われたら終わりですし、努力するとしても結果が出るのは相手のペースです。
そこで、変えたいのは自分なのだと自覚すれば、出来る限り自分が主体となって考えます。
相手に改善をお願いしてもやらないなら、次に自分はどう出るかと考えることが出来ます。
自分が出来ることの限界点も見えてきます。
相手の能力、現状を知って自分がもうひと頑張りできるのか、これ以上のサポートは無理なのか、自分が決めればいいんです。
例えば僕の場合、事故を起こして他人に迷惑をかける心配があったので、父親から車だけは取り上げました。
発達障害に認知症 自覚がない危険ドライバーの管理①
父親には自分の運転能力を自覚する力はありませんでしたし、母親にも運転を止めさせるかどうかを考える力はありませんでした。
放っておいたら、廃車か免停になるまで運転を続けたと思います。
親の身に何が起ころうがもはや僕には関係ないですが、事故を起こせば僕を含めた家族や親類にも影響があります。
もちろん、事故の被害者は何一つ非がないにも関わらず、うちの親は償えないかもしれません。
親、特に父親にはこのように先を見通す力はないですから、僕が止めなければいつか事故を起こしたと思います。
車を手放すことは僕にとっても少し不便でしたし、親を説得するのはさらに面倒な作業ではありました。
でも、親の言い分は一切聞きませんでした。
話し合いにならないことはわかり切っていたし、彼らは自分の言動に責任を取らないからです。
この時ばかりは、親がどうしたいかとか、どんな抵抗にあうとか、そういうことは全く考えず、僕がやると決めたことをやり通しました。
事故を起こしてしまうことは、僕が嫌だったからです。
親は事故後をろくにに想像出来ていないので、いつまでたっても運転をやめる決断はしなかったと思います。
親の意向を尊重していたら、僕はただイライラを募らせていたと思います。
その後、母親はことある毎に「止めさせてよかった」と、まるで自分が尽力したかのように言い放ってますが……(苦笑)
アスペルガーの人と共存して行けるかどうかは、この人に自分の気持ちをわかってもらいたいのか、自分の気持ちをわからせたいのかの違いかなとも思います。
前者は、まだ共有したいという気持ちが残っています。
それに対し後者は、相手に『私が正しい』ということを知らしめたいのだと思います。
後者になってしまうと、もう2人の未来ではないですよね。
僕は、気がつけば親の間違いをさらけ出し、自分の正しさを証明することに追われていました。
「アイツらはみんな…」と発達障害全てを否定しなくても、「私にあの人は合わなかった」というだけで離れていいんです。
「頑張りたくないからやめました」でも、何も悪くないでしょう。
その先の未来を生きるのは自分なんですから。
一般的にはわかりにくくても、きっとここの読者さんはわかってくれます。
みんな怖いんだと思います。
決断することも、生活を変えることも、誰かと離れることも。
だけど、大丈夫。
一生懸命、自分を生きてきたんですから。
たとえこれまでが間違いだらけでも、今はまだ醜くもがいてるとしても、それはそれだけ自分と向き合って来た証ですから。
ちょっとベクトルを変えるだけです。