『人間ってのは小難しいもんだよなぁ』
「どうしてそう思う?」
『だってよぉ、どうしようもねぇ糞野郎がくたばって、それ見て、愛している奴が喜ぶどころか泣き喚いて、そのあと床に伏せるんだ。だってよぉ、真っ当に汗水垂らして生きている奴が、くだらねぇ夢抱いて道草食ってる奴に憧れを抱くんだ。俺ぁ、すげえ悲しくなるんだ』
「くだらねぇ夢も、真っ当だってか?」
『そう! やはり君とは話が合うなぁ、仁よ』
「お前はいつもそればかり言うな、次郎」
『俺ぁ、死ぬまで落語やりてぇんだ。語りながら死にてぇんだ。これのどこがくだらねぇってんだ』
「さぁ、誰にそんなこと言われた?」
『町の奴ら、皆さ。奴ら、どうかしてやがる。あんたのせいで妙子さんは病に倒れたんだ。だから落語なんてくだらねえことしてねえで、ちったあ真面目に働けだと』
「ふうん、おせっかいな奴らもいるもんだ」
『だろう? 放っといてくれたらいい。自分らのことは自分らでやるさ、外野がグチグチ言うんじゃあねえって。……やはり分かってくれるのは君だけだ、仁よ』
「分かったからいい加減それやめておくれよ、むず痒くなる」
『ああすまねえ。……あれ、もう酒が無えな、仕方ねえ、行くか』
 
「なあ次郎。人生ってのはくだらねえよな」
『どうしてそう思う?』
「そりゃあ、真面目に生きている奴は、くだらねえ夢持った奴らが死なねえように汗水垂らしてるからさ。でもな、たまに感謝もしてんだ。くだらねえ夢持った奴は時に、真面目に生きている奴を助けてるもんなんだよ」
『なんでお前ぇがそんなこと分かるんだ、仁。馬鹿にしてんじゃあねえだろうな?』
「うるせえ。そりゃあ俺が、お前に憧れているからだ。金はなくとも好きなことやって、なんとか飯食って生きて、べっぴんさんの隣で寝息を立てられる。それ以上のことが、この世のどこにあるってんだ」
『さあな、俺ぁそれしか分かんねえから。お前ぇみたいに立派な役人じゃあねえし、金もねえ。女がいるかどうかは知らんが、夜風の入らねえ寝床で寝息を立てられる。それも、別に悪い事じゃあねえだろう』
「……それじゃあ次郎よ、お前は、朝日が昇ったら何を思う?」
『朝日ぃ?そりゃあ、良いもんだろぉ。身体が漲るっうか、気持ちの良いもんだ』
「俺はな、朝日なんか昇らなくていいと思っちまう」
『ふうん、おかしな奴だ。役人ってのはおかしな奴がなるもんなのか?』
「なにを、おかしな奴は死ぬまで落語なんかやってるもんだ」
『はっ、まったくだ!やっぱりお前ぇは面白れぇ、ああ、そういえば酒が無かったな』
「そうか、じゃあそろそろ俺は行くよ」
『あぁそうか。次は、お前に気持ちいい朝日が昇った時にしようか』
 
「……お前はちっともくだらなくなんかねえ、くだらねえのは俺だ」
『お?なんか言ったか、仁?』
「ああいや、妙子さん、良くなるといいな」
『あぁ、きっとすぐ良くなるさ』
 
 
 二人が再び酒を酌み交わすことは叶わなかった。
というのも、それから妙子の容態は日に日に悪化し、次郎も必死に看病をしたのであるが、あの日から一月も経たないうちに、妙子はこの世から去ってしまった。当然、次郎はひどく悲しみ、嘆き、しばらく町に顔を見せなくなった。
お隣さんのヨシコさんを除いた町の連中は、次郎のことを自業自得だとそこら中で井戸端会議をしてた。
 ある日、七夜経っても次郎が顔を見せないので、ヨシコさんが次郎の家に顔を出したそうだが、そのとき次郎は息をしていなかったという。
 次郎は、妙子の後を追ってしまったのである。
 
 
「すまんなヨシコさん、友が世話になった」
「いえ、私は何も……。あの、仁さん、次郎さんが籠る前、こんなことを言っていたんです」
『…………なぁ仁、やっと分かったらぁ。朝日なんか昇らなくていいってよぉ』
「私にはなにを言っているのかさっぱりで、でも仁さんなら」
「……そうか。またお前お吞みたかったのによぉ。なぁ次郎、俺はお前を立派だと思うぜ。他の連中はとやかく言ってるようだが、俺はただ、好きなように生きて、お前なりに一本筋を通して、好きな女と最期を全うしたお前が、ただ友として、誇らしいんだ。格好良いぜ、次郎。また向こうで呑もうや」
 
 それから仁は、次郎の墓の前で一晩を過ごした。
 
「…………もう日が昇るじゃあねえか。……ああ、今までで一番マシな朝日だ」
 
 
 
 
 
 

 

【羊たちの免罪 第十話】

 

 

 

「母さん、これどう思う?」

「………すぐに、答えは出せないかな。ごめんね」

「それも、やっぱりそうだよね。僕も最初見たときは発狂しそうになった」

「うん、そうね。ところで、凛は決めたの? これからどうするか」文乃が尋ねる。

「うん、捜しに行こうと思う。誰がどんな目的で送ってきたのか分からないから、趣味の悪い悪戯の可能性もあるし、本当の可能性もある。だったら、やっぱり放っておけないよ。光莉は今でも家族だし、たった一人の妹だから」

「そう……母さんも行きたいけれど、身体のこともあるしやめておくわ。もし光莉に会えたら、二人で動画でも撮ってきてちょうだい。二人の顔が見たいわ」

「ええ、光莉だけでいいじゃん。僕はお見舞い行くし。あ、ていうか光莉に会えたら二人でお見舞いに来るよ。それがいい。変な動画を撮らなくても済むし」凛が閃いたように言う。声のトーンが上がっていく。

 

「……母さん、もう今日は行くね。あ、そうだこれ。差し入れのバウムクーヘン。母さん、好き?」

話に夢中になって、右手に持っている差し入れのことを忘れていた。

「ええ、好きよ。ありがとう」

 文乃は凛の方を見つめて微笑み、その後、手前の机に広げっぱなしのティーン雑誌に視線を移した。

 

 

 凛が病室をあとにしてから、吉岡が入れ違いで病室に入ってきた。凛は気づいていなかったが、吉岡は二人の再会の一部始終を目撃していた。

 

「葉山さん、良かったですね。4年ぶりに息子さんの顔を見れて」

「ええ、あなたのおかげよ、吉岡さん。本当にありがとう」

「え、どうして私が?何もしてないですけど・・・・・・」

「ふふ、まぁ何だっていいじゃない。そういえば、さっきからすごい物欲しそうに見てたけど、これ好きなの?」

「え、ばれてましたか……。そうなんです、バウムクーヘン、スイーツの中で1番好きなんです! チョコがけのも好きですけど、やっぱりシンプルなのが1番良いんです。そしてこの店!隣町の有名な店なんですよ、あの歳でレディにこんな気遣いできるなんて……凛君モテるんじゃないですか?」

「まさか! 多分悠里よ、凛がお世話になってる教会のシスターで、気が利く人だから」

「へぇ〜そうなんですね、私がバウムクーヘン好きなのを知ってるくらいだから会ったことあるんだろうけど・・・・・・」

「これだけの患者さんがいて、その関係者まで全員覚えるなんてほとんど無理じゃない? まぁ、私は食べられないし吉岡さん貰ってくれるかしら?」

「そうですか……あとで皆でいただきます! ありがとうございます!」

 

吉岡はそう言ってバウムクーヘンも袋を手に取り、病室を出ていった。

 

 

ガラガラと静かな音を立てて病室の扉が開く。

 

「よお、久しぶり。思ったより元気そうじゃないか」

「……あら、これは珍しい。健治さん、どうしてここに?」

「あまり動揺してないな、何かあったか」

「そういうのは良いから、何しに来たの?」

「ああ、単刀直入に言うと……」

「光莉が生きているかもしれない」

「……⁉ お前、どうしてそれを。……いや、そうか、なるほど」

「今日はいつになく忙しないわ」

「……そうか。分かった、邪魔したな。もう行くよ」

「待って。……ねえ健治さん、私はどうすれば良いの」

「さあ。ただ少なくとも、そうやって悩んでいるのは良い事なんじゃないのか。人ってのは、悩む時に成長していくもんだ」

「……じゃあもう行くよ、元気でな」

「ええ、貴方も」

 

*  *  *

 

 男は公園のベンチに腰掛け、すぐそこにある噴水の水が空を舞って地に落ちる様を眺めていた。今は午後3時を回ったところで、ここにきてから7時間くらいは経っただろうか。無限とも思える時間を溶かすのに必要なのは、常に空っぽのままでいられる精神力だ。しかし男はそれを持ち合わせていないので、自分が何をすればよいか分からないなら、他人に何かをさせようと思った。

 自分がこれからどうなって生きるのか、生きていられるのか。分からないから、男はそれのきっかけを、他人に委ねることにしてみた。

 

そろそろ、あの便箋が届く頃だろう。

 

「おいで、凛」

 

男はそう言うと、空に向けて両腕を大きく伸ばし、もう一度、噴水を眺め始めた。

 

 

 

 

 

【羊たちの免罪 第九話】

 

 

 

 教会を出る直前に、悠里さんに差し入れのバウムクーヘンを渡された。

「どうせ母さん食べられないのに……」凛はボヤいた。

「そんなこと言わない。お世話になっている看護師さんが好きなのよ」悠里はなだめるように言う。

「ふうん、まあいいけど。じゃあ行ってきます」

「いってらっしゃい。気を付けて」

 

 凛はバウムクーヘンが入った箱を手に持って、教会の正面玄関を飛び出し、そこら中禿げてしまった芝生の上を真っ直ぐに歩く。

西洋風の門扉が視界に入る。慣れた手つきで門扉を開錠し、教会の敷地の外へ出る。

 

 空が急激に広がったように感じる。

毎週行っている母のお見舞いだが、今日は少し緊張する。あの手紙のことを母に伝えるからだ。といっても実際、母は寝たきりで目を覚ますことはないから、どちらかと言えば、覚悟を決めて宣言しに行くような気持ちだ。

 これから自分がどうするかは、昨日悠里さんにも伝えたし、心の中でもその気持ちは変わらない。

「とりあえず、いつも通りに……」凛は言い聞かせるように呟いた。

 

ああ、カーディガンを羽織ってきて正解だった。昼間とはいえ、もう十一月だから肌寒い。門を出てすぐに左折し、右手には秋起こしを終えた田園が目一杯広がっている。少し乾燥した土壌の匂いが鼻腔をくすぐり、澱みない新鮮な空気を肺いっぱいに入れる。

田園通りをしばらく進むと、信号が見える。その信号を渡って真っ直ぐ行くと、数分でバス停が見えてくる。

数分に一度、秋風は剃刀のように少しの攻撃力をもって凛に襲いかかる。冬に比べれば可愛いものだが、同時に冬の訪れを感じずにはいられず、体感温度が僅かに下がる。冬は嫌いではないが、寒さは好まない。

 信号を渡ってほどなくしてバス停に着くと、視界の遠くにバスがこちらに向かってきているのが分かった。これに乗れば、病院前まで一本で行けるから便利だ。だが、この一本を逃してしまえば、次のダイヤは三時間後だ。

————いや、不便なのか?

 

 とにかく、今日は間に合ったのだから良いではないか。

 足元にある礫石を足先でコロコロ転がしていたら、中型車のエンジン音が聞こえてきた。

プシューという音とともにバスに乗り込み、病院までの四十分は景色を眺めていたり読書をしながら過ごした。

 

 病院に着くと、受付でマスクをつけた女の人に面会のことを伝えてから、母のいる部屋まで一人で向かった。もう何度も往来しているから、病院内のマップはほとんど覚えている。だが、矢張り緊張の糸が解けない。自分の心臓のドクドクとした音が重低音のように身体中に鳴り響く。頭の中で、手紙に関する思考が堂々巡りしている。

 頭がおかしくなりそうだ。他のことを考えよう。母は意識がないのだし、本当にいつも通りじゃないか。そういえば、と凛は思い立ったように、バウムクーヘンが好物の看護師さんは誰だ、と探してみることにした。

————看護師の制服を身に纏った人々、例に洩れず皆忙しそうだ。こんなことではバウムクーヘンなんて食べる暇ないのでは? というか、バウムクーヘンが好物って、大半がそうなのでは? 

 

「頭が痛い……」凛はため息をついた。

 自宅の庭のようなこの病院で、病室までの道に迷く事は無く、そしてバウムクーヘンが好きそうな看護師さんも見当たらず、凛は3006号室の目の前で足を止めた。

 

* * *

 

 文乃は終始落ち着かない様子だ。

鼓動を紛らわせるために、近くに投げたままだったティーン向けの雑誌を手に取って、とりあえず眺めてみる。

何の情報も頭に入らないままページだけがめくられていく。

ああ、このまま凛があの扉を開けずに、直前でなにか急用を思い出して、そのまま悠里のところへとんぼ返りしてほしい、なんて思ってしまう。動悸が激しい。お昼の薬は飲んだはずなのに、気が動転して薬に手を伸ばしそうになる。文乃は止まらない手汗をタオルで拭ってから、『十代の女子百人に聞いた、好きなスイーツランキング』の特集に視線を向けた。

「ええっと、一位がカヌレで、二位がマカロン、三位がバスクチーズケーキ…………」文乃は半ば呆れた。

ショートケーキとかバウムクーヘンが一番でしょうに。文乃はここ最近の洒落たスイーツを好まない。

 

「母さん…………? 母さん!」

 

 文乃の視界が、その場で立ち尽くしたまま小刻みに震えている凛の姿を捉えた。

 

 実は文乃は、吉岡の言葉に感化されて、あることを心の中で決めていた。

 

『次に凛がここに来るときは、絶対に逃げない』

 

 文乃は、ただ凛を見つめるのが精一杯だった。それがこの瞬間、文乃のできる最適かつ唯一の解答だった。凛はしばらく驚いてから、安堵したような表情を見せる。

 次の瞬間、凛の後ろに人影が見えた。そこには満面の笑みの吉岡が、カルテを抱えて文乃の方を見つめている。

 二人の目に薄っすら涙の蕾があるのが分かった。それを見て、文乃は約4年の歳月を経て、自分の気持ちを、自分の行動で伝えることができたのだと確信した。

 

 凛がこの病室で見舞いをしてくれた、約200回。

 吉岡がこれまでに取り替えた点滴、約1460回。

 

対して、文乃が約4年の間で現実と向き合った回数、1回。

 

―――――これから、これからだ。少しずつ、返していくから。

 

「母さん、おかえり」

 

「凛、ただいま」

 

 凛が文乃の元へ駆け寄る。文乃が凛を抱きしめ、凛も文乃を抱きしめた。

その時、凛がおそらく手元に握っていた一枚の紙が文乃の布団にひらりと落ちた。

文乃はそれに気づき、数回折りたたまれた紙を手に取った。

「凛、なにか落ちたわよ、手紙かしら」

「あ、母さん。それは!」

 

 

『 葉山 光莉 は 生きている。』 

 

 

 ここら一帯の空気が真空になったような異質さがある。

 

 

「…………母さん。今日は、その話をするために来たんだ」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

【羊たちの免罪 第八話】

 

 

 

 朝食を済ませて子どもたちの洗濯物を干している時、悠里は終わりの見えない考え事をしていた。無論、先ほどの便箋の件である。

悠里の脳みそを悩ませているのは、便箋の中にあったもうひとつの情報————一枚の紙切れ————をどう扱うか、ということだった。 

 

 便箋を凛に渡した時、凛は至って単純な驚きと安堵の表情を見せていた。

だが、本題はここからだ。凛も先ほど言っていたが、さっきの今で、お互いにまだ動揺が隠せていない。真偽の見分けがつかないこの状況に、頭が追い付いていない可能性は大いにある。

 

 朝食の時のことである。凛は、如何にも自然な所作で、目玉焼きに牛乳をかけて食べていたのだ。しかも、口に入れるまでそれに気づいていなかった。彼なりにいろいろ考えを張り巡らせていたのだろう。数回咀嚼をしてから『うわぁ!』という叫び声が聞こえて、私は安心した。

 

 あの手紙の内容が真か偽か、差出人は誰なのか、そして、仮に生きているとしたら、光莉ちゃんは今、どこにいるのか。……いや、あの紙に書いてあった場所にいるのだろうか。

————秋晴れで洗濯物がよく乾きそうだ。あぁ、このまま昼寝がしたい。

 悠里は少し面倒くさそうにしかめっ面をしながら洗濯物を干し、風になびいたタオルの一枚に顔をうずくめた。

 そのとき、正面玄関の扉がバタンと開いた音がした。

 

 悠里は急いで顔をタオルから離し、両手を大きく広げたりして、洗濯物を干している風に見せかけた。

 人の気配を感じて後ろを振り向くと、凛が立っていた。

 

「シスター、僕決めた」凛の目は庭の芝生の方を向いている。

「手紙のことよね、どうするの?」悠里は返した。

「先ず、母さんの所に行くよ。それから、光莉を捜しに行こうと思う」

「……そっか、そうよね。本当に光莉さんが生きているかもしれないものね」

「……うん。でも、あの便箋に書かれてたのは光莉が『生きているかもしれない可能性』だけだった。肝心の場所が書かれてなかったから、直ぐには行かないよ。少し、計画を立ててからにする」

「……そう、そうね。分かったわ。すぐさま駆け出さないのは賢明ね」

「……まあたしかに、僕と光莉の立場が逆だったら、あいつだったら何も考えずにここを飛び出しそうだ」

「ええ、そうかもしれないわね。とにかく、まずは病院に行きましょうか」

「うん。明日行きたい」

「分かった、連絡しておく

「ありがとうございます、悠里さん」

 

安心した。そんな自分がいた。

若し彼が、ここに残ると言ったらどうしようかと思っていた。

病院に行った後、あの紙を凛に渡そう。

そうすれば、凛はきっと救われる。

モノクロで止まりかけていた凛の人生が、ゆっくりと色をつけて進んでいくはず。

 

「これでいいのよね、文乃さん」

 

 その後悠里は、葉山文乃が入院している病院へ電話を掛け、それから緩やかに吹く秋風を胸いっぱいに吸い込んだ。

 

 その夜、家計簿を書き記していた悠里は、ふと部屋の窓に目を向けた。

なにやら、薄黒い物体が敷地の中を動いている。悠里は、窓の扉を開ける。冷たい風で鳥肌が立つ。

少し見ていると、やがてその物体が人だということに気付き、悠里はそれを目で追いはじめた。

その人は、洗濯物干し竿の近くの芝生で立ち止まり、そして大の字になって地へ倒れ込んだ。

その人は、凛だった。防風性の高い黒のブルゾンを羽織って、凛が芝生に倒れ込んでいる。

 

「凛……」

 

悠里は部屋の中で両の手を合掌させ、祈りを捧げた。

 

悠里は空を見上げた。

 

雲はほとんど姿を見せず、幾つもの星々が煌びやかに闇を照らしている。

 

「今日の星が、綺麗で良かった」

 

悠里はそう呟いて、芝生に寝転んだ凛を、もうしばらく眺めていた。

 

 

【羊たちの免罪 第七話】

 

 

 

 

 葉山文乃は四年ほど前からY市の総合病院に入院している。

 最初に病院に運ばれたときは突発性の意識障害だと考えていたが、どうやら呼吸器系の持病の方がひどく悪化していたらしく、救急で運ばれ応急処置をされた後、Y市の総合病院で面倒を見てもらうことになり現在に至る。

 

 週に一度、決まって息子さんの凛君が見舞いにやって来る。凛君は入院してからほとんど毎週見舞いにくる、優しい息子さんという印象がある。陽気ではなく、寡黙なタイプの子どもだと思う。

 

母親と同様にあの事故が原因で心を閉ざしてしまったのか、はたまた元よりクールなのだろうか。

「久しぶりに、良い天気ですね」

看護師の吉岡は、病室の窓に視線を向けた文乃に優しく声を掛けた。吉岡は、慣れた手つきで空っぽになった点滴を新しいものに取り替えている。

「………………………………ええ」文乃はか細く返した。

 

 歳のわりには綺麗な方だと思うけど、多分、昔は今よりもっと美しい方だったのだろうなと思う。

 胸のあたりまでまっすぐ綺麗に伸びている黒い髪がよく似合う。鼻は高く、奥二重に近いような切れ長の目で、唇は厚みがほとんどない。ほうれい線が多少目立つものの、シミやそばかすとは無縁のような白い肌をしている。モデルや女優と言われても、ああそうなんだ、と納得できでしまう。

 

 葉山さんは、よく窓の外を見つめている。きっと私には分からない何かが、あの窓の向こう側で手招きをしているのだろう。

点滴の取り替え作業が終わり、吉岡はカルテにチェックをつける。

 

葉山さんは少し変わった人だ。

何故なら彼女は、いつも息子に会う時だけ『意識が無いフリをしている』のだ。

「週に一度、息子が来るときは必ず知らせてください。それに、事前にアポイントがないと面会もしませんので」

 

それが葉山さんと交わした唯一の約束だ。病院内、受付の事務員さんを含めて看護師や担当医師の全員が、それを徹底していて、今でもその約束は律儀に守られている。

 

 ある日吉岡は、この約束について何か只ならぬ理由がある思い、患者の状態を保つための情報収集という名目で、勇気を振り絞って聞いてみたことがある。

しばらく間が開いて、葉山さんは一言、「今更どんな顔して話せばいいか分からないから」と苦笑をして言うだけだった。

 

 家庭内事情に関わる情報は繊細に扱わなければならない。他人どころか、当事者たちでさえ行き場を失うことも多い。なので吉岡は、そうですかと言う他に返す言葉が見つからなかった。

 

 吉岡はカルテに貼ってある付箋を見て、これからのスケジュールを確認した。

よし、そろそろ次へ向かおう。そう思った矢先、

「…………私、弱い人間なの。過去に囚われて、光莉にも、凛にも、合わせる顔が無い」葉山さんが言う。葉山さんが自分の話をするなんて珍しい、というか、初めてだと思う。

「自分が余りにも惨めで哀れなのに、それでも、まだ生きたいと思ってしまうの。何もしないのに、ただ、そう願うだけ。……私はあそこから、何も進んでいない」葉山さんは今も、窓の外を見つめている。

 

―――――ああ、そういうことか。吉岡は思った。

 

「……弱いとか強いとか、私にはあまり分からないですけど、多分、どっちにもなれるんだと思います。トップアスリートの人でも、調子が悪い時とか良い時があるくらいですから。人それぞれ、強い時期と弱い時期の長さが違うだけだと思うんです。それで強い期間が長い人を、メンタルが強いとかって表現したりして。特に病気を患っているときは、弱い時期になる人が多いのだと思います。この仕事をやっていて、色んな患者さんと関わって思ったんです。病気を患って、どんどん萎縮して悲観的になる人もいれば、逆にスッキリしたと言って楽観的になる人、なんだか特に変わらない人。

 いろんな人がいて、でも私に見せるその人の表情や言葉は、氷山の一角でしかなくて。すべてを見る事なんてできなくて。だから私は、見えているその一欠片を何よりも大切にしているんです。時間がかかっても、そんな欠片の一つ一つを大事にしていれば、いつの間にか少しずつ欠片が増えていって大きくなって、今まで見ることのできなかった世界を見る事ができるんだと思います。人と人が互いに関係を築くのって、こういう事なのかって、改めて思ったんです」

 

「あ、ごめんなさい! 若造がペラペラと……」顔が赤らんだ気がする。

「いえ、でも本当ね。吉岡さんの言葉を聞いて、少し気持ちが楽になったわ、ありがとう」葉山さんが微笑む。おぼろげで綺麗な笑みだった。

 

「あ、いえ! ありがとうございます。……では、点滴はこれで大丈夫なので、何かあればまた呼んでください」

「ええ、ありがとう……」一瞬、葉山さんの目に生気が戻った気がする。

 

 吉岡は葉山さんに笑顔を見せ、幾つかのカルテを持って、息をつく暇もなく次の戦場へ赴く。

 

 吉岡が病室を出た瞬間、窓の外で強い秋風が吹いたのが分かった。

 

 文乃は、病室の扉に背を向けて、微笑む。