いじめ問題の大きな間違い。
まず国民は「出来ない事」を認めなければならない。
いじめ問題での教育者側に対しては今、
責任感が足りないなどと言われてたりするが、
本当は逆。責任の背負い込み過ぎ。
まいど、マキシです。
必要以上の責任を背負い込んで、
その背負い込んだ必要以上の責任が果たせなくて、
責任逃れしてるのが最近の教育関係者の姿。
同時に周囲が責任背負わせ過ぎ。
必要以上の責任を背負わせて責任を果たしてないと責め立てる。
責任背負わせ過ぎ。
起きてるいじめに対して教師にいったい何が出来る?
止めさせるったってどうやって?
叱ったり注意したりでいじめてる奴が止めると思うか?
いじめを見逃さないように目を配るとかいうが、出来るのか?
いじめがあれば感じでわかるというが、その感じだけで何が出来る?
感じだけでどれだけの事が出来る?
怒れもしないだろ。
相談にのると言うがのったからってどうなる?
気休めにしかならんよそんなものは。
既に起きてるいじめは全然解決しない。
教師にいじめを止めさせる事なんて出来はしない。
校長とか教育委員会とかになればもっと何も出来ない。
いじめを止めさせる事に繋がるような事は、
一切出来ないと思っても過言ではない。
出来るのは気休めにしかならない相談と注意だけ。
こんなもんで既に起きてるいじめが止む訳がない。
校長や教育委員会にはいじめを止めさせる事は出来ない。
出来もしない事をやらなければと思ってるのが、
教師・校長・教育委員会。
到底出来ない事をやってないと責めてるのが、
マスコミ・親・生徒・一般の多くの人々。
いったい教師や校長や教育委員会に、
何が出来ると思っているだろうか?
せいぜい出来るのは話し合い位のもので、
大抵これすらまともに出来ない。
中にはいじめを止めさせる事が出来た場合もあるかも知れないけど、
それは極稀にある奇跡的な事。
いつもいつも望めるものではない。
常に期待出来るような事では決してない。
話し合って分かり合うなんて極稀にある事でしかない。
いつもいつもそれで解決出来ると思うのは大間違い。
その大間違いを犯してる。
教師自身は出来るつもりで責任を背負い込む。
校長も教育委員会も背負い込む。
マスコミ・親・生徒・一般の多くの人々は出来るものとして責任を問う。
責任逃れ云々以前の大間違い。
教師・校長・教育委員会に関しても、
出来もしないのに出来るかのように言うな。
マスコミ・親・生徒・一般の多くの人々、
出来ない事を求めるな。
責任はその責任を果たせる者にある。
その人に出来る範囲がその人の責任の範囲。
個人の出来る範囲を超えた大きな責任を負う時には、
同時にそれが果たせるだけの権限を持つ。
権限を持ってその責任を負う。
そのようにして出来る事と責任は一致させる。
責任はその責任を果たせる者にあり、
責任を果たせる者が責任を負う者となる。
教師・校長・教育委員会にはいじめを止めさせる事は出来ない。
よって教師・校長・教育委員会は責任を負う者ではない。
では誰が責任を負う者なのか?
それはいじめを止めさせる事の出来る者、
いじめを止める事の出来る者。
いじめた生徒といじめられてる生徒には出来る。
その近くにいる生徒も出来る。
これらが責任を負う者。
責任を問われるべきはこの者達。
責められるべきはこの者達。
どうしても教師に責任を負わせたいなら、
教師にいじめを止めさせるだけの権限を与えなければならない。
目が届かぬことのないよう常に監視する権限と、
暴力を力ずくで阻止する力を振るう権限を。
教師に責任を負わせようとする人に問いたい。
それを認める気があるかと。
権限認めようとしない奴程、責任を問う。
手足縛っておいて責任ばかりを問う。
手足を縛れば出来る事は限られてくる。
出来る事が限られれば責任だって限定される。
このことがわかってない。
日本に蔓延ってるのは無責任ではない。
蔓延ってるのは無い責任を問う事。
手足を縛って責任だけを背負わせて、
その責任を果たさないといって責め立てる事。
日本に蔓延してるのはこれ。