花鳥風月

うん、全く意味はないです。




こんばんわ、マキシです。




くぅ~、この書き出し自体がひどく懐かしい。
ふとした事からアメーバブログを覗いたので、
そういえばと思いログインしてみた。

IDやらパスードを覚えているかもまず怪しかったけど、
どうやら正解だったようで何より。

かつて6年間、毎日休まず更新し続けた「マキシの遺書」。

2ndまで使用していたブログサービスが終了し、
当時、それまで使用していたサービスに引っ越し機能がなかった為、
3rdでは完全に新しく始める形になった。

それまでの書き溜められたエントリーがない事に、
さみしさを覚えつつも開始したものの、
やはりそこからは続かなかったね。

という訳でだいぶ空いてしまったけれど、
思い出したのも何かの縁ってことで更新をば。


「武器もなく、自分の体力が、

相手(エイリアン)に及ばない事を知った時、
自爆(自殺)して、

自分の人間としての尊厳(プライド)を守ろうとする。」


まいど、マキシです。




これを「弱い」と言いいます。

戦い方を知らないから自殺しか選べなくなるのです。
武器が無く体力で劣ろうと戦いようはあります。

助力を求めるとか、周囲に気付かせるとか、
親・教師・相談所・団体・警察・マスコミ・政府と、
助けが得られるまで事を大きくするとか。

相手にしてもらえないなら、
嫌でも関与せざるを得ないように仕向けるとか。

虐めは拉致や監禁と違って行動の自由はあるのです。
やろうとすればいくらでも出来ます。

体力だけでなく精神力も知恵も武器です。
力を使う以外の戦い方だって沢山あります。

そういった戦い方を子供に教えるべきです。

教えて、虐めに対して対処出来る力を、

子供に身に付けさせる事、
それこそが大人の役目です。


子供はその内、自立して社会に出なければならないのです。
自立してやっていけるだけの力を付ける事が教育です。

自分で自分を守れる力を、
子供に身につけさせねばなりません。

自身の行動で協力や助力を得る方法を教える事、
これも子供にしておかなければならない教育です。

これから成長しようという子供に対し、
弱いというのは決して非難ではありません。

強くなれ、であり、
周囲に対しては強くしてあげろ、という叱咤激励です。

子供はまだまだこれから強くなれるのです。
弱いと言われたら強くなればいいのです。
強くしてあげればいいのです。
子供を強くしてあげる事が教育であり大人の役目です。

虐められてる子供を気遣って、
あなたは何も悪くないとか、

そのままでいいんだってのは、
逆に子供を追い詰めます。


何故追い詰めるかと言えば、
今の状況を苦しいと思ってるのに、
自分で出来る事が無くなるから。

自分が何も悪くないのであれば、
自分に直すところがないという事であり、
やる事がありません。

そのままでいいと言われたら、
新たな事を覚える事も身に付ける事も工夫する事も、
何も無いとなってやる事がありません。

自分が何もしないとなれば、
状況は変わりようがありません。
変わりません。

つまりは苦しいままです。

何も出来ずに苦しむだけになってしまうのです。
本人は苦しいのですから、
それを何とかする為に何かをやりたいと思ってる筈です。
どうしていいかわからない事にも苦しんでる筈です。

そこへ何もしなくていいでは、
やる事は何も無いんだ、
もうどうにもならないんだと思わせてしまいます。
絶望させてしまいます。

どうしていいかわからなくなってる子供には、
そのままでいいと言うのでなく、
ここが悪いと言い、更にこうすれば良いと、
教えてあげるべきです。

或いは、ここが足りない、
もっとこの部分で努力しなさいと、
言ってあげるべきです。

これで希望が出てきます。
希望があれば自殺はしません。


苦しみから逃れられるという希望があれば、
苦しんでるだけに努力します。
努力して成長します。

もちろん助言は適切なものでなければなりません。
その子供に可能な事で、例えわずかでも、
状況を変化させられるものでなければなりません。

状況の変化を期待出来ないような助言では、
更に追い詰めますので。

どんな子供であれ子供はそのままではいけません。
子供は成長しなければならないのです。

悪いところは直す。
良いところは伸ばす。
いずれにしろそのままではいけません。

これから更に成長をしていき、

力を付けていかねばならない子供に向かってですよ。


そのままでいいなんてのは禁句です。

いじめ問題の大きな間違い。


まず国民は「出来ない事」を認めなければならない。

いじめ問題での教育者側に対しては今、

責任感が足りないなどと言われてたりするが、

本当は逆。責任の背負い込み過ぎ。




まいど、マキシです。




必要以上の責任を背負い込んで、

その背負い込んだ必要以上の責任が果たせなくて、

責任逃れしてるのが最近の教育関係者の姿。


同時に周囲が責任背負わせ過ぎ。

必要以上の責任を背負わせて責任を果たしてないと責め立てる。

責任背負わせ過ぎ。


起きてるいじめに対して教師にいったい何が出来る?

止めさせるったってどうやって?

叱ったり注意したりでいじめてる奴が止めると思うか?


いじめを見逃さないように目を配るとかいうが、出来るのか?

いじめがあれば感じでわかるというが、その感じだけで何が出来る?

感じだけでどれだけの事が出来る?


怒れもしないだろ。

相談にのると言うがのったからってどうなる?

気休めにしかならんよそんなものは。

既に起きてるいじめは全然解決しない。


教師にいじめを止めさせる事なんて出来はしない。

校長とか教育委員会とかになればもっと何も出来ない。

いじめを止めさせる事に繋がるような事は、

一切出来ないと思っても過言ではない。


出来るのは気休めにしかならない相談と注意だけ。

こんなもんで既に起きてるいじめが止む訳がない。

校長や教育委員会にはいじめを止めさせる事は出来ない。


出来もしない事をやらなければと思ってるのが、

教師・校長・教育委員会。

到底出来ない事をやってないと責めてるのが、

マスコミ・親・生徒・一般の多くの人々。


いったい教師や校長や教育委員会に、

何が出来ると思っているだろうか?

せいぜい出来るのは話し合い位のもので、

大抵これすらまともに出来ない。

中にはいじめを止めさせる事が出来た場合もあるかも知れないけど、

それは極稀にある奇跡的な事。

いつもいつも望めるものではない。

常に期待出来るような事では決してない。

話し合って分かり合うなんて極稀にある事でしかない。

いつもいつもそれで解決出来ると思うのは大間違い。


その大間違いを犯してる。


教師自身は出来るつもりで責任を背負い込む。

校長も教育委員会も背負い込む。

マスコミ・親・生徒・一般の多くの人々は出来るものとして責任を問う。

責任逃れ云々以前の大間違い。


教師・校長・教育委員会に関しても、

出来もしないのに出来るかのように言うな。

マスコミ・親・生徒・一般の多くの人々、

出来ない事を求めるな。


責任はその責任を果たせる者にある。


その人に出来る範囲がその人の責任の範囲。

個人の出来る範囲を超えた大きな責任を負う時には、

同時にそれが果たせるだけの権限を持つ。

権限を持ってその責任を負う。


そのようにして出来る事と責任は一致させる。

責任はその責任を果たせる者にあり、

責任を果たせる者が責任を負う者となる。


教師・校長・教育委員会にはいじめを止めさせる事は出来ない。

よって教師・校長・教育委員会は責任を負う者ではない。


では誰が責任を負う者なのか?

それはいじめを止めさせる事の出来る者、

いじめを止める事の出来る者。


いじめた生徒といじめられてる生徒には出来る。

その近くにいる生徒も出来る。

これらが責任を負う者。


責任を問われるべきはこの者達。

責められるべきはこの者達。


どうしても教師に責任を負わせたいなら、

教師にいじめを止めさせるだけの権限を与えなければならない。

目が届かぬことのないよう常に監視する権限と、

暴力を力ずくで阻止する力を振るう権限を。


教師に責任を負わせようとする人に問いたい。

それを認める気があるかと。


権限認めようとしない奴程、責任を問う。

手足縛っておいて責任ばかりを問う。

手足を縛れば出来る事は限られてくる。

出来る事が限られれば責任だって限定される。


このことがわかってない。


日本に蔓延ってるのは無責任ではない。

蔓延ってるのは無い責任を問う事。

手足を縛って責任だけを背負わせて、

その責任を果たさないといって責め立てる事。


日本に蔓延してるのはこれ。