「ジェンマ、あなたにお客様よ。」
ヘジンからミニョがテギョンと一緒にいるところを見たと電話があったのは数日前の夜。今しかないとミニョはテギョンとのことを説明し、話すのが遅くなったことを謝ろうとしたが電話は途中で切れてしまった。すぐにかけ直したがヘジンは電話に出ない。その後も何度もかけたがつながらず、ヘジンとは話せずじまい。
養護施設で子供たちの相手をしていたミニョはシスターに呼ばれ、もしかしたらヘジンが会いに来てくれたのかもと、急いで事務室に向かった。
それほど広くない事務室には向かい合わせに並んだ机が幾つかと、隅の方に応接セットがある。そのソファーには一人の男性が座っていた。ヘジンかも・・・と思っていたミニョはその後ろ姿に少しだけがっかりしたが、相手の方に失礼よねとすぐに気を取り直し明るい声を出した。
「すみませんお待たせしました・・・・・・あれ?・・・ビルさん!?」
思いもよらない人物の姿にミニョは目を丸くし、名前を呼ばれた男性はミニョを見ると「こんにちは」と表情を和ませた。
ビル・アーリス。
彼とはアフリカでボランティアをしていた時に出会った。
六十代後半くらいだろうか、しわの刻まれた顔は眉をひそめ冷たく気難しく見え、腕には幾つもの傷跡があり中には銃創と思われるものもあった。その傷跡と無口で人を寄せ付けない雰囲気のせいか、アフリカでは他のボランティアは彼とかかわろうとしなかったが、ミニョは何のためらいもなく話しかけた。
話をしてみるとビルは人づきあいが苦手というより、あえて他人との接点を避けているようにも思えた。彼は多くの人を傷つけた罪滅ぼしにボランティアをしていると言っていたが、ミニョにはその話をするビル本人が、犯した罪にひどく傷つき苦しんでいるように見えた。
「子供が元気に遊んでいる姿はいいね、見ているだけで楽しくなる。」
養護施設の広場で、キャーキャーと騒ぎ走り回っている子供たちをビルはベンチに座り眺めていた。目を細めているのは強い陽射しのせいだけではない。子供たちがのびのびと遊んでいる姿が眩しく見えたから。
「おじいちゃん、いっしょにやろ。」
「ダメだよ、ジェンマ先生のお客さんだぞ。」
「えーっ、いいじゃん。」
小さな子供がビルの手を引き遊びに誘うと、年長の子供がそれをたしなめた。
韓国語の判らないビルには子供たちの会話は判らなかったが、一緒に遊ぼうと誘われているのは何となく判る。ビルはしわの顔に笑みを浮かべると、子供たちの輪の中へと入って行った。
「すみません、子供たちが無理を言って。」
「いやいや、誘ってもらえて嬉しいよ。こんな風に子供の相手をするのはずいぶんと久しぶりだ。」
ビルは過ぎ去った昔を懐かしむように子供たちへと穏やかな眼差しを向けた。
ビルには溺愛していた孫がいた。彼女が幼い頃はよくこんな風に遊び相手をしていた。
一緒に暮らしてはいなかったが、彼女も祖父であるビルのことが大好きで、大人になってからもよく邸に遊びに来ていた。
十年ほど前、ビルは車に乗っていて事故に遭った。大怪我を負ったビルは一命をとりとめたが、偶然一緒に乗っていた孫が犠牲になった。
その頃のビルは仕事柄恨みを買うことが多く、事故は彼と敵対する組織の者の仕業だと判った。
しかし「報復を!」といきり立つ部下たちを抑え、彼は報復をしなかった。それはいつもビルに人を傷つけるのも危険な仕事をするのもやめて欲しいと亡くなった彼女が強く願っていたからだった。
その後、彼は数年かけ束ねていた組織を解散し、合法的な事業は全て息子たちに経営を譲った。
しかし裏の世界から足を洗ってもビルを狙う人物はいる。組織はなくなったがビルを慕う数人の部下たちは護衛の為、彼のもとに残った。
イギリスを出たのは息子たちの利権争いに巻き込まれそうになったビルの身を案じ、部下が彼を逃がしたからだが、辿り着いたアフリカでのボランティアはビルが今まで流した他人の血と、自分のせいで死なせてしまった孫への償いの為でもあった。
そこで出会ったミニョは、亡くなった孫にどことなく似ていた。それは容姿ではなく、かもしだす雰囲気やビルに向けられる眼差し、そして穏やかで慈しみに溢れている優しい歌声。
ずっと暗く冷えきっていた心の中に、ろうそくの火が灯るのを感じた。
再会したイギリスの教会でミニョが歌ったのは、偶然にも孫がよく歌っていたアメイジング・グレイス。
ビルの犯した罪をあがなうかのような歌声に、孫とミニョが重なり、彼の頬には涙が伝った。
ビルがミニョと時間を共有したのは今までの人生からすれば瞬きほどの時間しかない。それでもビルにとってミニョは特別な存在になった。
今回ビルが韓国へ来たのもミニョの様子がずっと気になっていたからだった。
わずかな時間だがこうして再びミニョと会うことができ、ビルは心の底から嬉しく思った。
「私チャリティーコンサートに出ることになったんですけど、コンサートホールで歌うなんて初めてで・・・まだ先のことなのに今から緊張しちゃって。ちゃんと声が出るか心配だし・・・。でもカトリーヌさんのステージを見て素敵だなって、いつか私もあんな風に歌えたらって思ってたんで、少しでも近づけるかもと思うとすごく楽しみなんです。・・・って、私の歌なんて、まだまだ全然ダメですけど。」
「いや、ミニョさんの歌は素敵だ。きっと素晴らしいコンサートになるだろう。その時は必ず聴きに行くよ。」
ミニョといると心が和む。
ビルは穏やかに笑った。
「どうもありがとうございました。」
ミニョを車でマンションまで送ったビルは頭を下げるミニョに軽く手をあげ応えた。
韓国に来てよかったとビルは思う。
ミニョの笑顔を見ると心が安らいだ。
しかし・・・
「ボス・・・ミニョさん、誰かに尾けられているようです。」
マンションから遠ざかって行く車の中で、今日一日ビルと共にいた男たちの一人がミラーを覗きながらそう告げると、ついさっきまで穏やかだったビルの顔が一変して険しくなる。
「・・・一人、ここに残れ。」
車内に響く低く冷たい声。
ビルは笑みの消えた口から男たちに命令した。
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