【ミッドウェー海戦の生き残り】
室蘭市に、独身の頃から通っていた理容店がありました。
店主はOkaさんといい理容も丁寧で手早く腕の良い理容師でした。
麻雀仲間にもなりました。
休日前は徹夜で麻雀をしたこともありました。
頭を刈りながら、旧日本海軍の水兵として太平洋戦争に行った話しをしてくれました。
Okaさんは昭和16年に親と相談し、どうせ徴兵されるなら海の上の軍艦に乗りたいと、志願兵で海軍に行きました。
訓練を受けた後に配属されたのは、駆逐艦『野分』ノワキです。
全長118m 2033トン 速力35ノット 12.7センチ砲3門
25mm機関砲2門 61センチ魚雷発射管2門
対空機関砲の射手として訓練しましたが、飛行機に曳航された吹き流しを標的に狙って撃っても、なかなか正確に当たらないものだそうです。
昭和17年6月4日、Okaさんが所属する南雲機動部隊はミッドウェー島攻略作戦を実行します。
アメリカの艦載機の攻撃を受け
《空母》 飛龍 蒼龍 赤城 加賀 4隻を失う
《重巡》2 《軽巡》1 《駆逐艦》1 を失い 日本の戦死者3057名
主だった空母4隻を失い、日本海軍の敗北でした。
彼は駆逐艦『野分』の対空機関砲の第一射手として、ミッドウェー海戦を体験しました。
ミッドウェー海戦では航空母艦4隻をアメリカ空母艦載機により失い、駆逐艦は1隻を失いましたが『野分』は生き残りました。
駆逐艦は空母の周りを護衛しながら旋回する行動が主で、対空機関砲で射撃をしても当たらなかったと言います。
これは急旋回の連続の為、船体が極端に右傾・左傾を繰り返し、機関砲の照準が合わせられなかったといいます。
空母が撃沈され、沢山の水兵が海に飛び込み泳いでいましたが、艦長の命令で夜になるまで救助には行けなかったそうです。
助けを求める水兵の声だけが聞こえました。
救助活動は材木などの浮力体を海に投げ込んで行きます。
これは敵の潜水艦が潜んでいると考えられ、海上に停止できないのです。
空母が沈没した海面は重油で覆われていて、投げ出された水兵は可哀想だったといいます。
Okaさんは、ここで無傷で生還できました。
第1回目の幸運です。
昭和19年6月マリアナ沖海戦に参戦しました。
ここでも敵機動部隊の攻撃は熾烈で日本の艦艇の多数を失いました。
《空母》3 《戦艦》1 《重巡》1 《艦載機》395機 を失う
この当時の艦載機パイロットの技量は落ち、まともな着艦も出来なかった。
ここで日本海軍の残存主力艦艇と航空機を失い、日本海軍の敗北でした。
Okaさんは、ここでも無傷で生還できました。
第2回目の幸運です。
乗艦していた駆逐艦「野分」(ノワキ)は、この後、ラバウル~トラック島方面で輸送船の掩護をしていました。
この時にグラマン戦闘機群に攻撃されました。
第一射手のOkaさんは、すぐ銃座につきグラマンを狙い射撃したのですが、まったく当たりません。
そしてグラマンの機銃掃射の跳弾(ちょうだん)の破片が首の正面から入り、グルッと300度廻って右首の所で止まったそうです。
銃座から落ちたOkaさんは出血で意識が薄れたそうですが放置され、対空機関砲は第2射手(第4射手まで居ります)がすぐに替わって射撃を続けました。
陸上戦でも艦艇でも、敵に狙われる機関砲の射手が一番戦死が多いのです。
グラマンが去った後、食堂に運ばれ首に包帯を巻かれて近くの港に降ろされ、そこから広島の呉海軍病院で破片摘出手術を受け、しばらく入院生活を送りました。
Okaさんは、ここでも負傷したものの生還できました。
第3回目の幸運です。
昭和19年10月、駆逐艦「野分」はサマール沖海戦に参戦し、敵の艦艇により撃沈され多くの乗組員が亡くなりました。
トラック島海域で、もしOkaさんが無傷で「野分」に乗り続けていたら、『野分』の沈没と共に命を亡くしていた可能性が大きいです。
Okaさんは、ここでも負傷した事により下船し生還できました。
負傷したお陰で命拾いしたのです。
第4回目の幸運です
Okaさんは、呉海軍病院を退院した後また召集されましたが、その頃には撃沈されて乗る艦艇がほとんど無かったのです。
昭和20年8月敗戦後、横須賀海軍基地で戦後処理に従事しました。
戦後の国内では食料が無く、衣服も無く、餓死する人が沢山いました。
ところが、軍隊の隠匿物質は山のように大量に隠して保管されており、横須賀での戦後処理の1年間は米・味噌・醤油・毛布などで困る事は無かったのです。
任務を解かれ室蘭に帰る時は、食糧や毛布など持てるだけ担いで帰宅し、しばらくは暮らしに困らなかったのです。
兵隊仲間の情報では、戦傷者に軍人恩給など手当が出ている人もいたのですが、Okaさんが役所に問い合わせた結果、無事に帰れたのだから支給しないとの事でした。
その替わり、総理大臣の感謝状1枚と総理大臣の銀杯1個を渡されてすべての戦後補償は終わりました。
これが命を削ってお国の為に戦い、負傷した日本国民に対する扱いです。
平和な世の中が一番です。
Okaさんは晩年まで理容店を営み、息子さん家族と幸せに暮らしました。