人が変わるには膨大なエネルギーが必要で、

他人のために己のエネルギーを使うだけの情熱はあるか。


変わりたいってタイミングでの他人からの声は大きなエネルギーになる。

でも、エネルギーを燃やすのは自分だ。

与えたり受けとることは出来ても、自分を変えるのは自分にしか出来ない。



転所した利用者さんがすぐに亡くなる、

この仕事始めてから何度そんなことがあっただろう。


状態が悪くなって入院し結果亡くなってしまうというのは残念だがどうしようもない。

家庭の都合、主に金銭面の問題で状態に見合わない施設、もしくは自宅に移り程なくして倒れているところを発見、救急搬送、死去という流れがとてもやるせない。

現場がいくらそこじゃないって叫んだって、立場的には踏み込んではいけないのだ。

家族でもケアマネでも相談員でもないのだから。


利用者さんと家族との関係性。

私たちが見ているのは人生終盤の数ヶ月、数年でしかない。

優しいおばあちゃん?穏やかなおじいちゃん?

この人が子どもにどんな仕打ちをしてきたか知らないくせに、

年金と介護保険で補えない分を負担なんて冗談じゃない、

ということも割とある。


いろんな人がいていろんな今までがあっていろんな考え方があっていろんな事情があって。



自分からみたら「ありえない母親」がいて、

その母親の子供はすごくかわいそうで気の毒に思える。

自分が正しいと思い込んでる母親がとても不快でイライラする。


で、考える。

「私」はどうしたいんだろう。

「ありえない」って伝えたってあの人は変わらない。

私にはあの人を変えるだけの情熱はない。

どうしたい、どうなって欲しい?


どうでもいいな。

自分に実害がない限りどうでもいい。

子供はかわいそうで気の毒だけど。


…自分の子供が他人にかわいそうで気の毒と思われるのってつらいよな。

自分の母親が「ありえない」と言われるのもつらいか。





私の頭のなかと同じで相変わらずとっ散らかってるな。

つまり、なにが言いたいかというと、



みんなしあわせになれー☆彡

子どもをネタに稼いでいる親がネタにしないでと訴えてきた子どもに対して「私の子に生まれた宿命だ」と一蹴した話。そう、それさえもネタにする根性。


そこから転じて輪るピングドラムの罪と罰。

「僕たちは始まりからすべて罰だったんだ」



子どもは親を選べない。

生まれたときから罰を受けている。


私が母親じゃなかったら父親と過ごせていたかもしれない。

私が母親じゃなかったら裕福な家庭で育っていたかもしれない。

私が美人だったら、私が健康だったら、私が常識人だったら、私が社交的だったら、

息子はいまよりずっとずっとしあわせに育てた。


私が母親なせいで見られない景色がある。


いつだって申し訳ないと思っている。


ニキビ出来やすかったり化膿しやすいのは私の遺伝子のせい。

怒りっぽいかったり思い込みが激しいのは父親の遺伝子のせい。

ADHDな部分はたぶんふたりからの遺伝。

これから先、私の膠原病やら父親のうつ病やら遺伝したらどうしよう。

隔世遺伝で前立腺がんになったらどうしよう。


私が母親でごめんなさい。

本当に申し訳ない。



息子の小学校六年間で出来なかったことがあって、

お母さんがしっかりしてたら出来たかもって落ち込んでたら息子に言われた。


「でもさー、はむのお母さん出来るのはお母さんくらいだよ?」


そしたら、お母さんの息子出来るのははむくらいじゃん。


「適材適所。バランスいいんでない?」



はむ、大好き。

優しい子に育ってくれてありがとう。


そのうち、生まれた環境を恨んで盗んだバイクで走り出したり、夜の校舎の窓ガラス壊してまわったりするかもしれないけどね。

まあそんときは私も頑張って向き合うよ。


しあわせになって欲しい。

しあわせにしたい。

しあわせになろう。



ところで、


君はいつまで一人称はむなんだい?