たとえば、そう、なんでも良いんだけど、かもぼこ板みたいなのが直立した時、そこに目玉がついていたら、印象が全くちがう。
あたりまえのことだけど、透明のちょっとレンズみたいな曲面で中に黒い丸が入っていて、勝手にくりくり動くモノなんかはいっていたら、それだけで見ている人は安心するというか、そのキャラクターを受け入れ易い。
そんな、瞳が動くモノでなくても、マジックで丸が2つ描かれていて、したに一本、真横に線が書かれていると、さらによい。
そのかまぼこ板を左右に振るだけで、なにかを見回している、探している、眺めている、ように見える。
しかし、これがただのかまぼこ板が左右にふれると、ただそれは、板が左右に振れているだけとなり、見ている人の意識はその左右に降っているかまぼこ板を遣っている人へと意識はいく、どういうつもりでそれを振っているのか、その遣い手はどんな表情なのか、状態なのか、ということを気にする。
つまりは、どこまでいっても表情にいきつく。
この表情や気持ちから、かまぼこ板を解放する方法はないものなのか、ということをずっと考えている。
子供の頃にどうやってそういったモノと遊んでいたんだろうと、遡って考えるのだけれど、普通の子供であるならば目玉や口がついているかまぼこ板の方が、いわゆるイマジナリーフレンドとして遊びの時間を共有することはたやすく、おそらく他の皆はそうやって遊んでいたんだろう。
私は九歳まで一人っ子であり、また母が足が悪かったために、一人で遊ぶ時間が長かった。
その時の事を思うと、私はたとえばかまぼこ板があったとしても、それに目を描いたりして擬人化してはいなかった。
かまぼこ板はかまぼこ板として、私の側にあった。
でも、それは板という物体ではなく、歩くという動作もいろいろ試したし、空を飛ぶこともできた。空を飛んで加速して高速で飛んでいるところを、今でいうカメラがフォローするような動きで、目的地に着く、そして……という遊び方をしていたと思う。
かまぼこ板に話しかけることはなかったし、かまぼこ板がなにかこちらに語りかけることもなかった。
そう、これを書いていて今、思い出したのだけれど、そんなふうにかまぼこ板で遊んでいる私を見て、母が不思議そうに言った「そのぶくぶくぶくっていう音は海に潜っている音なの?」
 その通りだし、それ以外になにがあるというのだ、と思って、その母の質問に今度は私がきょとんとする番だった。
 そう、かまぼこ板は海を探索していた。
 これがもし、かまぼこ板を潜水艦などに見立てていたら、そんな音がするはずはない。
 私はかまぼこ板の呼吸の効果音を一人で出していた。
 これも擬人化なのか?
 ただ、かまぼこ板に目や口を描いていたら、おそらく空を高速で飛ぶことはなかったろうし、海底を探索することもなかっただろう。
 そう、私がやりたいオブジェクトシアターーは海底を探索したりするかまぼこ板がでてくるものなのだ。
 もっとダイナミックに、そして、リアルにモノがこの世界を生きている、それがたぶん、私の到達地点だ。