前から俺が考えよったことを今日友達と話す機会があったんやけど、実際どうなんだろうね〜
という感じになった話題について書きます。
世界中にいろんな差別が昔からあって、それは当たり前のことになりすぎて差別であるっていう認識すらしてないようなこともある。
でも最近は徐々にいろんなことが差別であると気づいたり、気づいた人が発信しやすい世の中になったりしたことによって、差別が少なくなってきとる気がする。
でもよくよく聞いてみたら「それって差別なん?」っていうこともある気がするんよねー
今回話すのはタイトルをつけるのであれば、「ジェンダーと言葉」について
簡単な例を挙げると、元々よく使われていた「看護婦」っていう言葉があって、その職業には男性もいるわけだし女性だけの仕事ではないから「婦」っていう言葉を使うのはおかしいよねっていう風潮によって最近では「看護師」っていう言葉が一般的になった
みたいな。
まぁそれは言っとること理解できるし理屈も通っとると思うしその変化には自分含めて多くの人が対応しとると思う。
それみたいに最近ではあらゆる言葉とか職業からジェンダーをなくそうとする働きがある。
英語でも同じような働きがあって、警察官の事を英語でポリスマンって言いよったけど、女性はマンじゃないから今はポリスオフィサーっていうのが一般的になりつつある。みたいな。セールスマンじゃなくてセールスパーソンだよ。みたいな。
こういう感じで言葉の中に含まれる差別的な表現とかを訂正していく働きのことをポリティカルコレクトネスっていうんやけど、俺はこれがどこまで必要なのかに関して疑問があって
例えば日本で考えると、カメラで撮影する人のことを「カメラマン」っていうけど、現時点で「カメラマン」っていう言葉が性差別を含んでいるって考える人ってほぼおらんと思うんよ。実際におるかどうかはアンケート取らなわからんけど。
でもこれは原理的にはポリスマン→ポリスオフィサーと同じわけやし、ポリティカルコレクトネス的な観点でいうとカメラマン→カメラパーソンとかにするのが正しいことになるけど、これってそこまで変える必要あるん?
今までカメラマンっていう単語に性差別を感じる人がいなかったのに、それを変更することで余計性差の名残りを強調しとるような気もせんでもない。
ポリティカルにコレクトネスされた社会では、「僕のお父さんはサラリーパーソンです」って言わないかんの大変やない?
なんなら一人称の「僕」とか、親の「お父さん」っていう単語も将来なくなるかもしれん。
「僕」を基本的に男性しか使わないのは男女差を浮き彫りにしているから今後禁止すべきだ!これからは一人称は全員「私」にしよう!って学校で教えられるの俺はなんか気持ち悪くて嫌やなぁ
さっきの例文で言うと「私の親はサラリーパーソンです。」みたいな。
あとは語尾についての議論も最近ツイッターで見た。女性外国人の発言が日本語訳されるときはいっつも「〜だわ」とか「〜かしら」みたいになるのが「典型的な女性観」を強く示しているから性差別みたいな
その理論もわからんではないんやけど、それはそういう「典型的な女性観」の押し付けに対して不快感を感じている本人たちが反論するのはいいとして「社会全体としてこんな倫理観は根絶すべきた!」っていうのはちょっと行き過ぎかなぁと。
「僕」とか「あたし」にしても「〜だぜ」とか「〜だわ」にしても、その言葉の存在が悪いわけではないけん、他人を不快にさせないように状況を見て使い分けるところで留まってほしい。言葉の存在をなかったことにしないでほしい。
っていうのが俺の意見
だって今までの多くのフィクションのセリフとかが悪しき文化として残るの嫌やん
「月にかわっておしおきよ!」が数年後のテレビでは
「月にかわっておしおきだよ!」とかに変更されとったら泣くやん。
話戻るけど、そもそもカメラマンにしてもポリスマンにしても看護婦にしても、その言葉ができた当時には男女差があったとか性差別があったみたいな歴史はあるかもしれんけど、現在普通に使われている言葉を聞いてそんな差別を連想することってあんま無いと思わん?
単語の成立当時の文化とか社会的背景と今慣用的に使われるようになっている単語の意味を連動させる必要は無いと思う。
それはそれ、これはこれ。
ではダメなのだろうか…
まぁ言葉を改訂することによってあえて言語使用者に対して違和感を抱かせることによって、その単語を使うたびにジェンダー問題に対して意識するようになる
っていう利点もあるっちゃあるんかなーとか思うけどね。
ジェンダーの多様性を尊重するが故にあらゆる言葉がフラットになりすぎて逆に言語内での多様性が失われていくっていうのもそれはそれで悲しいよね
っていうお話でした。
まぁ人によって意見は違うやろうけどな!
寝